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私 の 見 た 満 州 (1)
丘 淳 平
昭和二十一年十月下旬、私は鳳城近くの八路軍の病院にマラリヤ治療のため入院していた。 この病院は医者と看護婦は日本人で、日本の陸軍病院の人たち二十名で運営されている。患者は全べて八路軍の兵隊たちで、二百五十人くらいはいた。そのうち、日本人は私と、I氏、S氏の三人であった。なぜ、八路軍の病院にいるかというと、湯池村の農家から帰って、歩いて北上しようと計画したものの、sansyoutakasi君らが出た翌日になって、危険だということが分かり、計画は中止になっていた。そのまま、農家には帰らず、但東に滞在したが、たまたま、八路軍の担架隊の募集があり、どうせ、どこかに連行されるのならということで、会社の同僚とともに、希望して入隊したのだった。
この病院に私が入院したときは、同じ日本人ということで、医者も看護婦も好意的に看護していただいたが、マラリヤの熱は下がらず、薬が無いのか、最後は諦めたかたちとなり、薬も呉なくなった。一日のうちで一番熱の下がったときが三十七/八度で、午後には四十度を越していた。三十八度以上なると寒気がして、一番苦しいときだった。四十度を越すと、感覚を失ってしまうせいか、楽だった様に記憶している。
遺書のつもりで、私が死んだら内地の我が家に伝えて欲しい旨と、内地の住所と名前を記して雑嚢のなかに忍ばせてある。食事も殆ど摂れず、回復どころか、何時、死神が来るのかと待つばかりの毎日だった。
会社の同僚達と別れ別れになり、この大陸に一人ぼっちで高熱にうなされている姿は吾ながら哀れである。
そんなある日の朝、突然移動命令が出た。
「緊急事態発生、本日午前中にこの病院は患者ともども、全部移転する。荷物を纏めて、駅に集合せよ。」
病院から駅まで500mくらいだ。勿論、車などないから、みんな歩くのだ。再び此処には戻らないとのことだったので、、熱病でふらふらしている私も仕方なく歩くことにした。兵隊達は銃の手入れをし、荷物を纏め、どんどん移動して行く。緊急事態の割りに兵士達の無口なのが不気味なくらいだ。私もI氏に抱えられて、ようやくのことで駅にたどり着いた。
暫くぶりに見る鳳城の駅には列車が十列も並んで、今にも、発車せんと煙をもくもくと吐いていた。晴天の空が暗くなるほど煙を吐いている。十台の機関車が並んだ姿は実に勇壮だった。それに、一号車から十号車まで全部武装したカーキー色の服を着て銃を持った八路軍の兵隊だけがぎっしりと乗り込んでいる。この近くにこんなに沢山の兵隊が居たのかと驚いた。
私の乗る列車は最後の十号車だった。
国府軍が攻めてきたのだ。慌しい。
汽車の出発時間も一時間早く発つことになった。汽笛を鳴らして一番列車から出発が始まった。三分おきに続々と発車してゆく。丁度、七番目の列車が発車の汽笛を鳴らしたときだった、北のほうからダッダッダと機関銃の音がした。すごい音だ。近くだ、続いて右のほうにも、左の方にからもだ。汽車の中にいる八路兵たちは声を上げて汽車を降りる。出入り口だけでは間に合わない。窓から飛び降り一目散に南のほうへ逃げてゆく。その素早いこと。
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其の「1」から読ませて頂いています。本や、写真、語り部さんのお話も数多く拝聴していますが、思わず眼をつぶってしまいます。多くの方に読んで頂きたくお許しをお願いします。
2007/5/6(日) 午後 2:01
エイラさん、ご無沙汰しています。この乱を開くのはひさしぶりなので、コメントをいただいていることに気がつきませんでした。読んでいただき有難うございました。一人でも多くの方に知ってもらいたいことです。Cチャンさんのページにも訪れていらしゃるのを見かけました。
2007/12/29(土) 午前 11:12