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戦 後 か ら 帰 国 ま で
谷 十 巳
昭和20年10月、社宅の生活を切り上げることになり、荷物をまとめて、持てるだけのものを背負い、新京駅から労工車で帰国の途についた。車両は日本人のみの車両だったが、途中から中国人も多く乗り込み、閉じていた車の両方から入り口を開放せよと、ひっきりなしに戸をたたいた。
たまらなくなって、途中からドアーを開けたところ、彼等は入ってくるなり、荷物は言うに及ばず、着ているものまで略奪を始めた。拒否すれば持っている棒で叩くので、全く抵抗が出来ない。各駅に止まるたびに入れ代わり立ち代り、すべての荷物、着物を略奪され、安東(但東)に着いたときはランニングとステテコ姿だった。勿論、お金もすべて盗られた。先行して略奪に会わなかった同僚からのカンパでなんとか形は整ったものの、哀れな姿だった。
先行組の白君たちが始めていた商売の油揚げ屋からてんぷら、豆腐などを受けて住宅街や街頭を廻り歩いたが、成果は上らず、解散。それから、中国人の農家に住み込みで入った。ポーミー畑の草取りは一日二往復すると日が暮れた。冬になると農業が出来なくなり、白さんと王工廠に入所したが、これもリンパ腺が腫れて化膿し辞めなければならなくなった。治療に苦しんだが、幸いにも治癒した。後は、苦力に毎日出たが、日当は800から1200、卵一つが50くらいだった。次は、日当2000の風呂屋のボイラー釜の内側の掃除だ。欲に絡んで出かけてみたが、きつくて一日でケツを割った。
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全てを読ませて頂いています。現実にこんな事があったのか!と・・・ 頭では理解できても中々理解し難いことが多くて・・私も終戦には神奈川県平塚にいました。国民学校3年で終戦焼け野原の中で食料から衣服まで無かった靴も何も、、そんな状態でしたのに、風化させてはいけないと思いました。
2007/5/6(日) 午後 2:28
勝手に長い記述で申し訳ありません、自分史の一部分の積もりで書いたものですから、つい長くなっています。少しでも参考になることがありましたら嬉しいです。
2007/10/14(日) 午前 10:27