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先日読み終えた『ガダラの豚』(中島らも)の中に、
次のような文章があった。 宗教はこの世界を天国や地獄に解釈するが、 現世は現世でしかない。 人はこの現世で生きていくしかない。 細部は忘れたがこんな感じだったと思う。 インチキ宗教にハマってひどい目にあった主婦逸美の台詞だ。 この小説、前半は今も雨後の筍のようにボコボコと出てきては、 たまに事件を起こしてニュースなるインチキ宗教と、 "超能力バスター"との対決で結構面白い。 それにしても、人はなぜ"超越"を求めるのだろう。 小説にも登場するスプーン曲げの青年清川、 これは実在の自称超能力者の清田少年がモデルだが、 ユリゲラー以後の70〜80年代超能力ブームや、 90年代のUFO、超魔術、今世紀になっては今も続くスピリチュアルブーム、 これはブームというのではないけれど各種の占いやげん担ぎ、おまじない、オカルト等 "超越的なもの"を広義にとれば、これらも現実世界から超越したものと言えるだろう。 また、マイナスイオンや波動、パワースポット、パワーストーン等、 温暖化二酸化炭素説など到底科学的とは言えないような効能や現象、解釈を無批判に信じるのも同様かもしれない。 ところで、もっと昔はどうだったかと言えば、 現在ではおよそ納得できないような理屈で世界を解釈していた。 例えば、日蝕は太陽の死であったり、彗星が不吉の前兆だったり、 雷は雷神様が、風は風神様がというように自然現象も擬人化された神によって説明されていたりもした。 神話や物語もそうだ。 また、日々の生活に方向や日付を気にしたり、 病気を治すのにおまじないを用いたり、 人を呪う手法もあった。 でも、それらはその時代の世界解釈の方法であり科学であった。 仏教は科学であり、陰陽道も科学であった。 まあ、現代にしても素粒子を構成するクォーク、その先の超弦理論、 5次元宇宙論、膜宇宙、マルチバースなど神話と同じようなものかもしれない。 さて人が"超越"を求める動機は何かといえば、限界=境界への視線でなかろうか。 人は限界を認識するとその先を想像してしまうのだろう。 かつてはこの世界の海の果ては滝になっていて、大きな亀に支えられている…と。 時間的、空間的な境界への視線によって現世と常世を生み出し、 また自然の中に生きる人間自身への視線により宗教、神を生み出した。 でも、僕たちは近代に至りニーチェの"神の死"宣言に象徴されるように "超越"に決別を告げたのではなかったか? なのにこのテイタラクは? それはたぶんニーチェの"永劫回帰"の思想のように、「未来永劫、無限回に渡りこの生よ来たれ」という 強い現世肯定を唱えるような"超人"的な強さを人は持つことが出来ないからだろう。 ヴィトゲンシュタインは言葉の限界を世界の限界とした。 言葉は"僕の言葉"であり、世界は"僕の世界"でしかない。 そして、その「言葉=世界」の埒外にあるものについては、だんまりを決め込む態度をよしとした。 世界の外はアンタッチャブルというわけだ。 この限界は境界ではない。 つまり、この限界への視座には"超越"を生み出す要素はない。 ボクの好きな言葉を二つ。 「世界に不思議はない。世界があることが不思議なのだ」(ヴィトゲンシュタイン) "超越"は世界の中や外にあるのではない。いや、そもそも世界に外部はない。 「この世の中に不思議なことなどひとつもないのだよ。関口君」(中善寺秋彦) |
思想とか
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