井戸川橋畔に磯野禅尼の小さな墓石であったのを昭和になって再建、立派なものになった。1937年の県道改修工事のときさぬき市昭和の県道10号沿いに移転された。墓石の前に花崗岩の自然石で〈磯野禅尼之碑〉と刻まれた石碑が建っている。 文は津森明著『義経讃岐を駆ける』などより参照しました。 静御前の母 保安四年(1123)のこと、丹生の小磯に庄左衛門という大百姓がありました。この家に、イソという一人娘がありました。生まれつき賢くて瞳の美しい少女でしたので、近所界隈の評判をとりました。 長承二年(1134)の春、梅一輪、一輪の温かさということ、都へ上がる出船が威勢よく荷役をしています。その少女は子供心に船の中で遊んでいましたが、何時の間にか暖かくなって積荷の菰を背にして、うつらうつらと眠ってしまいました。潮順がよくなったので船頭達は子供が眠っているとも知らず船を出港させてしまったのです。 暫く時がたって「おや!子供が一人寝ているぞ・・・・」と気がついた頃は、船はもう播磨灘にさしかかっていましたから、船を引き返すわけにもいかず、仕方なく都へ連れて行く事になりました。そして知らぬ他国の港で、荷を下ろしている最中に、その女子は陸に上がって賑やかな町を、あちらこちらと眺めておりますうちに、また船員と離れる事になり、苦労を重ねて京の都にたどり着いたのです。 そして、一軒の家が目にとまりました。それは綺麗な女の子が出入りしていたからです。近所の人に、あの館はどなた様の館でしょうか?と尋ねますと、「今はときめく芸能指南で、宮中出入りの青柳師匠のお家である」と教えてくれましたので、イソは決心してその屋敷の小門から入って行き、「私は、讃岐の国、大内郡小磯の者ですが、お噂の高い青柳師匠の弟子になりたいと遥々訪ねて参りました。どうか弟子の一人にさせてください」と無理に頼みますと、では住み込みの下女として雇ってあげると許可がでました。風呂焚きでも何でもしますといって、利巧なイソですからこの館で一生懸命に働きました。イソ十二歳の時でした。 生まれつき利巧で、美しい彼女ですから、師匠の目にとまらぬはずはありません。その翌年には見込まれて内弟子となり名も「磯」と改めて、芸道を励むことになりました。 その頃、藤原朝臣通憲(信西)という公卿が、」よくこの館に遊びに来ていましたが、磯を眺めて「末頼もしい少女よ」と学問、作法、芸能の一手も教えてくれました。通憲は藤原家隋一の学者で、後白河法皇の寵臣でありました。 磯は、こうして歌や舞の他、学芸・婦徳の道まで教えられていました。 久安二年(1146)、二十四歳になった磯は、芸能の格式である「禅師号」を賜り、宮中出入りを許されてから、こ こに「磯野禅師」と名のり、一門を構えるようになりました。 文は香川県立図書館蔵『おおち夜話』歴史と民話より転載しました。 写真は、2012年2月20日撮影 場所はワイワイマップ『源平ゆかりの地・伝説の地map』にスポット投稿します。 |
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ビュートさん、こんばんは
今日は、蒸しますね
磯さんの人生、興味深く読ませて頂きました^^
高貴な方の目にとまり、歌や舞の他、学芸・婦徳の道まで教えられてもらえて良かったですね
モチロン、本人の努力もあったと思います^^
私事ですが、もっと勉強しておけば良かったと今頃になって、資格を取得しに行ったりしていますが、若い時みたいに覚えられないです^^;
☆^^
2012/7/21(土) 午後 7:02 [ NORI ]
NORIさん、熊本は大変でしたね。高松も暑いです。
香川ではこんなとらえ方をしています。全国では色々な説もあるようですけど。
容姿が良くて賢くて意欲が有れば、自分が思っていたより素晴らしい事が起こるのですね。
私は努力もしなかったし意欲も無かったようです。残念ながら!。
死ぬまで勉強と言いますから頑張ってくださいね。
byビュート イイね!ありがとうございます。
2012/7/22(日) 午後 10:40 [ ビュート ]