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真田屋敷跡(真田庵)
和歌山県指定文化財 昭和51年(1976)3月11日指定
住 所:和歌山県伊都郡九度山町九度山
マピオンマップ↓↓↓↓
寺 名:善名称院
本 尊:延命子安地蔵菩薩
開館時間
休館日:
入場料:無料
駐車場:九度山町駐車場使用
解説等
戦国の武将 真田正幸・幸村父子は慶長5年(1600)関ケ原の戦いで西軍に味方して敗れ、高野山に配流の身となったが、後、九度山の地で閑居生活をした。
昌幸は、慶長16年(1611)再起を願いながら此の地で65歳の生涯をとじた。
幸村は、慶長19年(1614)子、大助ら一族と共に、九度山のこの地を出て立ち大坂城に入城、大坂冬の陣、夏の陣で奮戦、元和元年(1615)茶臼山付近で壮烈な最後をとげた。
その後、江戸中期の寛保元年(1741)大安上人によって善名称院(真田庵)が創建され現在に至っている。
撮影日:2017年11月16日
資料等:現地説明板、九度山町の観光P、
大安上人
善名称院(真田庵)をはじめて建てた大安上人は、元禄七年(1694)岡久兵衛の子として九度山村に生まれた。名を大安といったが、十三歳のとき高野山西生院へ弟子入りして戎円と改めた。日夜の厳しい勤めにはげみ大師の教えを身につけ、十九歳のとき京都へ出て修行に専念し、三十二歳から諸国の深山霊地をめぐって心を練り、四十歳で九度山村帰郷。
寛保元年(1741)八月十八日、真田の旧跡へ地蔵尊を安置し、佉羅陀山善名称院といった。そして「本尊地蔵菩薩のお守りによって世の人々を救うことに生涯を捧げよう」と誓いをたて、「土砂加持」の信仰を強く持ち、紀の川の清らかな砂を何度も清水にさらし、人々の災難や悪病除けのお祈りをした。上人からこの土砂をいただくと、ふしぎに病気がなおり、災難をよけられたので、人々は父母のように上人を慕って集まってきたと伝えられる。また、大安の活躍は、朝廷や堂上方(公家衆)にも知られ、後桃園天皇は大安の加持土砂を毎朝御供養なされたという。
明和四年(1767)には、隋心院門跡権僧正見龍師から「上人号」を贈られた。
安永二年(1773)三月、如意宝蔵の落慶の法要を行い、その際、嵯峨御所から菊の紋付きの提灯を奉納され、以後、本院にこの紋使うことが許された。同年五月に入定されたが、境内一隅に御廟を建て弟子・信者は生きている時と同様に信仰し、霊験も与えてくれたという。 真田地主大権現
幸運の神地主大権現として敬い奉る社であります。
是は真田家重大の宝物である毘沙門天と真田家三代の御霊を合祀したものであります。
昔から福徳を授け給う運の神として遠近を問わず多数の信者が訪れ何事によらず一心に祈願すると霊験あらたかであると伝えられております。 真田安房守昌幸墓地
信州上田城主であった安房守昌幸は、関ケ原合戦の時次男幸村と共に西軍に組して戦った。
戦の後、徳川家康から高野山で謹慎を命じられ慶長五年(1600)に高野山に登り間もなく父子共にこの九度山に閑居した。昌幸は、同十六年(1611)に死亡(享年六十五歳)したので、この屋敷地に葬ったのがこの墓所である。 真田古墳
真田庵から東へ170mほどの所にあり、「この穴の向こうは大坂城に続いていて、かつて真田幸村はこの抜け穴を使って戦場へ出向いた。」という伝説が残っています。実際は、古墳時代後期(6世紀頃)の古墳でしたが、真田の伝説が残る場所として、真田古墳と名付けられました。 |
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2018年03月21日
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