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香川県と近県を旅しときの風景・四季を記録したブログ。 古い讃岐も

島根県・鳥取県

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とっとり花回廊

鳥取県立とっとり花回廊
日本最大級のフラワーパーク
住 所:鳥取県西伯郡南部町鶴田(一部伯耆町)
マピオンマップ↓↓↓↓

電 話:0859-48-3030
運営会社:一般財団法人鳥取県観光事業団
食 事:園内にレストラン有(周辺には食べるところが無い。)
開 園:1999年4月18日
文化財等:
撮影日:2017年7月12日
近隣施設:大山、皆生温泉、鬼っ子ランド、
感 想:分類は、植物園、テーマ―パーク、公園、どっちつかずの中途半端感が免れない。

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美保関港

【美保関港】
 美保関港 島根県松江市美保関
 美保関は北前船の交易港および避難港として栄えたが、幕府の大船建造禁止令以来、船は向かい風の航行が困難な一枚帆に制限され、季節風の激しい日本海での航海は天候予想が極めて重要になった。船頭たちは美保神社に詣でご託宣を拝受して日和山(どの山であったかは不明である。)に登り、観天望気の日和見をした。

 美保関港の位置する山陰地域には、既によく知られているように、古代から三つの交通路があり、それぞれに重要な役割を果たして来た。三つの交通路とは、対岸の朝鮮半島とその周縁部の北東アジア世界諸地域と山陰とを結ぶ「北の海の道」(鬱陵島・竹島・隠岐国・美保浜)、日本海の東北部沿岸や北部九州と山陰とを結ぶ「東西の海の道」、そして中国山脈を越えて山陽及び瀬戸内沿岸地域と山陰とを結ぶ「南の山の道」である。

 美保関の為替方の主な取引品目は、出船凡そ2万艘、入船凡そ2万艘で、越後米・因幡米・桐油・生蝋・鰊〆糟・櫨・大麦・小麦・銑・来待石・肥前焼物・土佐鰹節・笹目・数の子・鰊目切・干鰯・徳川弐朱金・塩鯨・干瓢・唐三盆白砂糖などとなっており、当時の美保関が廻船業としての海産物の移出、食糧米・水産加工用の塩の移入などの出船・入船で賑わっている様子を伝えている。これは島根東部の商品経済を美保関で支えたこと、日常生活上の食品移入文化が取り扱われたことを示すものである。

 隠岐国は流刑の中で最も重い「遠流の地」とされた。以来、江戸時代の終わりまで、天皇や皇族、公家、学者、僧侶など、隠岐国に流された人物は3千人をくだらないという。
美保関は隠岐へ配流までの風待ち・潮待ちの滞留地としての役割を果たしてきた。そのため、平安初期からの都人の歌が詠まれている。

 美保関の疲弊の原因は、財力をもった鴻池がすべてを境に移したことで、末端の労働機能を失ったことによる。隣接する境村が美保関を凌ぐようになるのは、新規交通機関の推移で述べたとおり、三菱郵船が美保関への寄港を取り止めて境津(港)に移行したことに始まる。急峻な山並みが海岸部まで迫り出し、背後地にも平坦地にも恵まれず、港内も狭隘な美保関港の自然条件が境のそれに劣っていたことが、境の進出を許す結果になったわけである。

取り分け、境の背後にある弓ヶ浜半島は、江戸時代後期から明治にかけて、棉作及び生糸の一大生産地になったこと、併せて、軍事上の広大な地を持つ境には、対岸の中国、ロシア、朝鮮への虎視が潜在していた点も見逃せず、国策による大規模な港湾整備を行って海上輸送を充実させ、大正15年(1925)の伯備線の開通、米子・境間の鉄道敷設による陸上輸送の発達によって飛躍的な発展を遂げて行った。

 来待石(凝灰質砂岩)は粒子が細かく火山灰と砂が均一に混在しているために、ノミの通りがよく、小細工に適しており、古来から、灯籠、狛犬、鳥居、墓石などに多用されてきた。現在、年代が特定できる加工品では讃岐・金毘羅宮の天明期(1781〜)の狛犬が一番古いが、美保関を積出港として北前船により頻繁に運搬されていった幕末から明治期にかけての加工品は、北海道全域から九州にかけての日本海沿岸、瀬戸内に分布している。
 東埠頭(新波止)と西埠頭(弁天島埠頭)に設置されている常夜灯も来待石の石組で、特に西埠頭の常夜灯については福岡県・筥崎宮のそれと並び称されている民俗的価値の高い造形物である。

 木蝋の生産については、島根半島東部に自生するハゼ(櫨)が原料となっており、松江藩の専売品として近世初期から細々と取り組みはされていたが、殖産を奨励した「御立派」の改革期になると肥後・熊本藩から大量にハゼの苗を買い込み、半島東部に植栽をさせて量産態勢に入った。同時に油木(アブラギリ(油桐)=樹皮の浸出液はタンニンを多く含み、皮なめし用,漁網染料とされた。?)も植栽させている。
 木実方の元締めは松江市街地の米子町に置いていたが、美保関港内にも一カ所工場を設けて生産をして、諸国に売り捌いていた。美保関の蝋燭加工工場については明治期の終わり頃まで稼働をしていたが、現在は松江市のどの地域でも和蝋燭の製作は行われておらず、半島部の所々にハゼが林立しており、昔日の面影を留めている。

 文は美保関港の「みなとの文化」 三代 暢実 より抜粋転載しました。
 http://www.wave.or.jp/minatobunka/archives/report/074.pdf
 写真は2012年10月11日撮影
 場所はワイワイマップ『旧海の道の燈篭台、海の常夜燈と岬の灯台map』にスポット投稿します。
 近隣施設:関の五本松・青石畳通り・美保神社・美保関灯台・境港

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 大多府島の元禄防波堤とよく似ている2段に石を積んだ構造で、曲面形状になる堤の築造技術も残されている。
 残念なことに防波堤の殆どを舗装で見えなくなってしまっているのが現状で先端部分の曲面形状だけでも将来も残して欲しい土木遺産だと思います。
 http://blogs.yahoo.co.jp/sanukimesatobuttestyle/22639515.html
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美保関灯台

【美保関灯台】
 美保関灯台(みほのせきとうだい)【4073.1】は島根県松江市美保関町の島根半島東端の地蔵埼の馬着山に造られました。「日本の灯台50選」登録有形文化財
 この灯台は、山陰地方では最古の石造りで、明治31年(1898)に地蔵埼灯台として建設されました。当時の光源は、石油で1等レンズ(内径1,8m、高さ2,6m)が使用され、光度は67,500カンデラでありました。その後、大正11年には、光源が電化され、また、昭和10年(1035)には地蔵埼の名称が全国的に多いことから、現在の「美保関灯台」と改称されました。1954年、1993年とそのその時代の最新鋭の灯器に改修され、現在はメタルハライト電球を使用する灯器となっています。(現在、初代の1等レンズは、大阪府岬町のみさき公園に、先代のLB90型灯器は隣接する美保関ビュッフェに展示されています。)昭和37年(1962)には、無線監視装置の導入により無人化され、平成10年(1998)には、初点灯から百周年を迎え記念事業が行われ、歴史的施設の保存措置として耐震性向上の灯塔改修が行われました。そして百周年を祝うかのように、この年には「世界灯台100選」の一つとして選出されました。
 以上の文は現地説明板より転載しました。

 資料 海上保安庁刊行「灯台表」&Wikipediaよりの転載しました。
 塗色:白色
 塔形:塔形(円形)石造
 塔高(地上〜塔頂):14.0m
 灯火標高(平均海面〜灯火):82.91m
 灯質・灯色:単閃白光 毎12秒に1閃光
 光達距離:23.5海里
 明弧:115度 - 52度
 初点灯:明治31年(1898)11月8日
 
 撮影日2012年10月11日撮影
 場所はワイワイマップ(旧海の道の燈篭台、海の常夜燈と岬の灯台map)にスポット投稿します。

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 手前の岩礁が「地之御前」 遠くの白く点に見えるところが「沖之御前」
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松江城

【松江城】
 松江城は通称「千鳥城」と呼ばれています。根県松江市殿町にある平山城で天守閣は重要文化財昭和10年5月13日(建造物)に指定されている。城跡は国の史跡に昭和9年5月1日指定されている。他に日本さくら名所100選や都市景観100選に選ばれている。日本100名城

 松江城は全国に現存する十二天守の一つです。天守の平面規模では二番目、高さでは三番目、古さでは四番目である。
 天守は、付櫓を加えた複合天守で高さ30m、外観五重、内部は六階となっており、最上階は望楼式で、下見板張りの壁や狭間、石落としなど実戦本位で安定感のある無骨な体裁に桃山風の壮重雄大な姿をつたえている。

 慶長十六年(1611)松江開府の祖「堀尾吉晴」が五年の歳月をかけて完成した。城主は「堀尾忠晴」「京極忠高」の後、徳川家康の孫にあたる「松平直政」が信州松本から移封され、以来、松平氏十代二百三十四年間にわたって出雲国を領した。
 明治初め、全国の城は殆ど壊されたが、松江城は地元の豪農「勝部本右衛門」、旧藩士「高木権八」ら有志の奔走によって山陰唯一保存され、松江のシンボルとして親しまれている。

 軍学者の小瀬甫庵、土木職人の稲葉覚之丞らが設計に携わった。
松江市街の北部に位置し、南に流れる京橋川を外堀とする輪郭連郭複合式平山城である。宍道湖北側湖畔の亀田山に築かれ、日本三大湖城の一つでもある。なお、城の周りを囲む堀川は宍道湖とつながっており薄い塩水(汽水域)である。構造は、本丸を中心に据え、東に中郭、北に北出丸、西に後郭、東から南にかけ外郭、西から南にかけ二の丸が囲む。二の丸の南には一段低く三の丸が配されている。

 城郭:輪郭連郭複合式平山城
 築城主:堀尾忠氏
 築城年:慶長16年(1611)
 主な改修者:京極忠高
 主な城主:堀尾氏(三代)、京極氏(一代)、松平氏(十代)
 廃城:明治4年(1871)

 文は現地説明板&Wikipedia&パンフレットなどより参照。
 写真は2012年10月11日撮影
 場所はワイワイマップ『城・城址のMAP』にスポット投稿します。

 遠望
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 内堀
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 大手門
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  石垣
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 天守
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