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賢人名:奈良 専二
日本の農業の先覚者 時 代:【文政5年9月13日(1822年10月27日)〜明治25年(1892年)5月4日】 父 親:奈良才蔵 号 名: 墓 所: 妻 名: 製作者: 建立者: 場 所:池戸八幡神社参道 マピオンマップ↓↓↓↓ https://www.mapion.co.jp/m2/34.28587380846234,134.12424532692228,19 旧 宅: 略 歴 1822 讃岐国三木郡池戸村(元香川県木田郡三木町池戸) 1830 運搬用猫車を発明 1883 東京に出る。(61歳) 1890 秋田県に招かれる。仙北郡花館村滞在 1892 緑綬褒章受章 1892年5月4日、秋田県南秋田郡川尻村(現・秋田市)70歳死去 解説等
明敏で数理の才に富み、機械工作の特技を身につけていた。 八歳にして猫車を考案。運搬用具として丸木橋でも猫のように軽快に渡れるので猫車と命名した。 二十歳のころから多収穫の稲の品種を目指し、選抜淘汰法を初めて作り奈良稲として世に普及させた。 上京し「津田仙」と親交を深めることにより、西洋農学を学ぶ。 大日本農会及び県外での活躍は著しく、明治「三老農」と称さられ、茨城・千葉・秋田で実地指導、農書の出版(新撰米作改良法等)などの功績を認められ、明治二十五年緑綬褒章を受章した。明治二十五年五月七日 花館(秋田県仙北郡花館村=現大曲市)の村民挙げての手厚い看病にも関わらず七十歳の往時を全うし遠く故郷をを離れた秋田の地に永眠される。【三木町教育委員会】 詳しい資料:香川県三木町 三木町文化交流センター蔵 『日本の農業の先覚者 奈良専二翁伝』 奈良専二翁顕彰会 資料等:コトバク、 現地説明板など、 撮影日:2018年6月3日 近隣施設:池戸八幡神社、 |
香川の賢人像
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賢人名:伊賀小四郎 (石像)
(香川県青年教育の父)
住 所:香川県高松市岡本町
場所 マピオンマップ↓↓↓↓
偉業等:
伊賀小四郎は、明治10年(1877))、阿野郡畑田村(現 綾川町)に生まれました。明治30年、20歳で畑田尋常小学校の教員になってから79歳で香川県教育委員会委員を辞するまで、実業教育・青年教育の振興に努め、香川県の教育界に大きな功績を残しました。
像作者:
世話人:伊賀氏功績顕彰会
資料等:香川県立ミュージアムニュース2016冬、
伊賀小四郎は、明治10年(1877)、阿野郡畑田村(現 綾川町)に生まれました。明治30年、畑田尋常小学校の教員となり、以後大正11年(1922)まで同校に勤務しました(明治40年より校長)。その後、山内尋常高等小学校長を経て、大正14年には、香川県立実業補習学校教員養成所(以後「実教養成所」)設立と同時に、唯一の専任教諭(主事)となりました。昭和7年(1932)同所を退職、同16年まで香川県青年教育主事として勤務しました。この間、小四郎は一貫して青年教育・実業教育の振興に努め、またそれに従事する教員を多数育成しました。
伊賀小四郎像の建設から現在にいたる経緯をたどってみることにします。
実教養成所の同窓会誌『實教の光』第3号に、建設の過程が詳細に記されています。それによると、昭和3年10月、地元畑田村有志による「伊賀先生記念物建設」が発議され、実教養成所に協力要請がありました。この年、小四郎は教育功労者として、文部大臣より表彰されており、これを機に顕彰の機運が高まったものと考えられます。しかし、その後、建設地や建設資金の募集方法がなかなか定まらなかったため、昭和7年5月、改めて「」が組織され、計画を前進させることになりました。その中心となったのは、小四郎の教え子たちでした。同年9月、建設地を奈良須池畔と決定して、銅像建設が進められ、昭和8年6月11日に除幕式が盛大に行われました。当日の写真を印刷した絵葉書は記念品として、顕彰会員に配布されました。
約5年の歳月をかけてようやく完成にいたった銅像は、戦時体制下の昭和18年、金属回収令により供出されました。当時の小
四郎宛の書簡には、銅像の供出について記されているものがあり、名誉なこととしながらも、銅像に代わる記念碑等の設置を望
む声があったことがうかがえます。現在の石像は、多くの教え子たちの要望により、昭和21年10月に再建されました。
常設展示「香川県青年教育の父 伊賀小四郎」では、収蔵資料の調査研究を通して、二度の寿像建設を実現させた教え子たちとの強い絆や、教育に向き合う姿勢など伊賀小四郎の姿を時代背景とともに紹介します。
撮影日:2017年3月8日
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玉楮象谷(たまかじぞうこく)座像
漆芸家 1806〜1869
文化三年、高松市磨屋町(とぎやまち)に生まれ、性格は豪放磊落で鬼才に富んでいました。二十歳の時、高松藩主に天分を認められ京都へ遊学し、中国伝来の漆塗り技法の研究を重ねながら自らの漆芸を創作しました。帰高後、三代の藩主に仕え、香川漆芸の礎を築いたばかりか、日本漆芸界に不朽の名を留めました。藩主に献上した「蒟醤(きんま)料紙箱」「硯箱」の意匠と巧妙の高さは、神技とさえいわれています。
※ 高松市美術館蔵の4点の作品が高松市指定文化財になります。
作 家:新田藤太郎
材 料:ブロンズ
制作年:1958年
設置場所:高松中央公園
住 所:香川県高松市番町
資 料:現地説明板
撮影日:2015年2月25日 新田藤太郎
大正〜昭和時代の彫刻家。
明治21年3月1日詫間町生まれ。
東京美術学校(現東京芸大)卒。
文展、帝展で入選をかさねる
昭和7年審査員となる。
戦後は郷里の香川県にかえり、制作につとめるかたわら県美術展の創立につくした。
昭和55年4月16日死去。92歳。
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菊池 寛像
作 家:新田 藤太郎
材 料:ブロンズ
制作年:
建立日:昭和31年10月24日
設置場所:高松市中央公園
住 所:香川県高松市番町1丁目11−1
解 説:菊池寛顕彰会・菊池寛の友人らの協力により建立。そのほか一般市民らも銅像募金に協力した。
資料等:もっと高松
撮影日:2015年2月9日
略 歴:
香川県高松市の生まれ
明治21年(1888)12月26日〜昭和23年(1948)3月6日
大正 5年(1916) 京大卒業後、時事新報社会部記者を経て、小説家となる。
大正12年(1923) 私費で雑誌『文藝春秋』を創刊し大成功を収め、多くの富を手にした。日本文藝家協会を設立。芥川賞、直木賞の設立者でもある。
新田藤太郎
大正〜昭和時代の彫刻家。
明治21年3月1日詫間町生まれ。
東京美術学校(現東京芸大)卒。
文展、帝展で入選をかさねる
昭和7年審査員となる。
戦後は郷里の香川県にかえり、制作につとめるかたわら県美術展の創立につくした。
昭和55年4月16日死去。92歳。
代表作に「肉弾三勇士」「菊池寛」「いとより姫」など
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弘法大師銅像 3.3m 香川県仲多度郡まんのう町神野 神野寺境内
日本一溜池、満濃池を見守っているかのように建てられている。 千百年御遠忌報恩記念(今年は千二百年)
満濃大師會 昭和八年五月七日建立 題字 伯爵 松平頼壽 設計原形制作 小倉右一郎 石工 長尾町 山下幾次郎 以上 台座より 大川郡石田村(現さぬき市大川町) 小倉右一郎作 銅像後側裾に刻されている。 満濃大師和讃
帰命頂礼遍照尊 さがのみかど ちょくをうけ たまもよるてふ さぬきがた まんのゝおほいけ きずきたり 四千町ぶの あれのはら たちまちみず田に なりかわり 玉ほゆたかに みのりして たみのかまども にぎはへり 千百年の ごをんきを むかへてあらたに あかがねの みすがたたてゝ いくちよも いさほあふがん かんの山 てにもつごこうの いろはえて きんぱかがやく みずの上 南無大師遍照尊 南無満濃大師尊 同 御 詠 歌
ちまちだに いまも そそぎて のりのしの めぐみあふるる まののおほいけ 弘法大師築池霊場 神野寺 満濃池大師 撮影日:2013年11月28日
場所は、スポットノート『銅像や記念碑等のmap』に投稿します。
満濃池
霊跡 おちょうな岩の跡
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