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【お遍路の誰もが持てる不仕合】
作 者:森 白象(もり はくしょう)
〔明治三十二年(1899)〜平成六年(1994)〕
背 景:白象の三男が亡くなり、遺骨を携え四国巡礼に出たとき、遍路の心にはそれぞれの思いと影があることを思い詠んだもの。
略 歴
本名 健三 僧名 寛紹
1899 愛媛県温泉郡重信町(現東温市)生まれ
高野山真言宗管長
高野山真言宗総本山金剛峯寺第四〇六世座主
1994 九十五歳で遷化
解説等
昭和二年、日本文学夏季大学が高野山で開催されたとき、講師として招かれていたのが高浜虚子で、それが縁となり虚子に師事することになる。
場 所:八坂寺
マピオンマップ↓↓↓↓
資 料:現地説明板 松山市教育委員会 『俳句の里 松山』、松山句碑巡り、
撮影日:2017年5月11日
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歌碑・詩碑・句碑・文学碑
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【初しぐれ 猿も小蓑を 欲しげなり】
作 者:松尾芭蕉
背 景
芭蕉は故郷の伊賀へ向かう山中を歩いていた。
すると初時雨が降り、猿がぬれていた。寒さに震える猿に思いをはせたのがこの句という。
解説等
芭蕉の150回忌を記念して、天保14年に建てられた。このような句碑は高知県内に28基あると言われる。
略 歴:
住 所:高知県高知市洞ケ島町
場 所:薫的神社境内
マピオンマップ↓↓↓↓
資 料:高知県HP、現地説明板、
撮影日:2016年12月20日
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【幼き日 大杉に誓いし夢 大輪の花となり ヒバリの唄は 永遠に眠らし】
作 者:神津善行・中村メイコ
背 景
幼き(当時9歳)美空ひばりが、昭和22年(1947)4月公演旅行中に、交通事故に遭い高知県大豊町で療養していた。一ヶ月ほどして、高知の病院に転院することになった「ひばり」は、八坂神社に参拝し、杉の大杉に「日本一の歌手にしてください」と願掛けした。
「ひばり」は、14歳の時、当時世話になった人々へのお礼を兼ねて大豊町を再訪し、当社(八坂神社)と大スギに参拝している。
その縁によって、大豊町は、「ひばり」没後の平成4年(1993)に「大杉の苑」を整備して、遺影碑と歌碑を建立した。遺影碑には、大豊町再訪時の14歳だった「ひばり」の姿が刻まれ、そばに立つとオートサウンドシステムによって『悲しき口笛』など3曲が流れる。『龍馬残影』
歌碑には、作詞家「秋元康」と作曲家「見岳章」の直筆による『川の流れのように』の歌詞と楽譜が記されている。
住 所:高知県長岡郡大豊町杉
場 所:マピオンマップ↓↓↓↓
資 料:大豊町観光ガイドなど。
撮影日:2017年2月1日
近隣施設:道の駅「おおすぎ」、八坂神社、特別記念物杉の大スギ、
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【石佛 濡佛 けふも秋雨】
作 者:種田 山頭火
背 景:
解説等:
略 歴:
住 所:徳島県三好市池田町白地
場 所:雲辺寺ロープウェイ山上駅付近
マピオンマップ↓↓↓↓
資 料:
撮影日:2016年11月22日
山門より階段途中にある。
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【水茎の岡 西行庵 歌碑】
作 者:西行法師
背 景
仁安二年(1167)五十歳の頃、讃岐への旅に出、恩顧を受けた崇徳上皇の白峰御陵に参拝したあと、弘法大師の遺徳を偲んで善通寺を訪れ、大師が修行を積んだ我拝師山を仰ぐ当地に庵を結び(水茎の岡)、数年間(「西讃府志」では五年間)逗留しました。また、曼荼羅寺境内にも昼寝石や傘懸桜など西行に関わる伝承地が残されています。
【曇りなき 山にて海の 月見れば 島ぞ氷の 絶え間なりける】山家集
庵の跡は荒廃していましたが、地元有志が浄財を集め、西行法師800年忌にあたる平成元年(1989)、現在の「西行庵」を再建しました。 吉原地区連合自治会、吉原郷土研究会、監修 善通寺市教育委員会
解説等
平安時代を代表する歌人西行法師は、元永元年(1118)武士の家に生まれ俗名を佐藤義清(のりきよ)と名乗りました。
十八歳で京都御所を警護する「北面の武士」となり文武両道で活躍していましたが、二十三歳の時、突然出家して仏門に入り、僧「西行」となり諸国行脚の旅を重ねました。
場 所:
住 所:香川県善通寺市吉原町三井之江
マピオンマップ↓↓↓↓
資 料:現地説明板など
撮影日:2015年11月13日
ミカン畑のネットが切れたところから左に入ります。駐車はこの碑の手前に少し広いところに止めて上がります。
西行法師の歌
「山さとにうき世いとわむ友もがな くやしくすぎし昔かたらむ」
「山里に秋の来にしと思ひしか 苦しかりける木枯の風」
「山里に人来る世とは思わねど とはるることのうとくなり行く」 など
中河与一作の歌
「西行がい保里せし跡希典が うえしホルトの繁り居り今」 |




