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香川県と近県を旅しときの風景・四季を記録したブログ。 古い讃岐も

玉藻公園(高松城址)

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高松市立玉藻公園【石灯篭】
池泉回遊式日本庭園(枯山水)
住 所:香川県高松市玉藻町2-1
マピオンマップ↓↓↓↓
https://www.mapion.co.jp/m2/34.35079271511821,134.05138043683382,19
マップコード:60 636 644*11
入園料:200円
休 日:無休
電 話:087-851-1521
運営会社:香川県造園事業協同組合
開 園:昭和60年(1985)
文化財等:日本の都市公園100選
H P:http://www.takamatsujyo.com/
駐車場:東門駐車場=無料
撮影日:2018年10月19日

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史跡 高松城址【天守台】
 天正15年(1587)に讃岐1国を与えられた生駒正親は、翌16年「野原」と呼ばれていた当地を「高松」と改め、高松城の築城を開始しました。天守も生駒時代に造られており、天守台石垣からは、生駒家の家紋が彫られた石材が見つかっています。
 寛永19年(1642)、徳川御三家の水戸藩主徳川頼房の長子松平頼重が常陸下館5万石から東讃岐12万石の領主となった。頼重は、高松城に入って3年目の寛永21年(1644)から城の改修に取り掛かっており、寛文10年(1670)には、それまで3重の天守を3重5階(4階+地下1階)に改修している。
 慶応4年(1868)、眈照佑歪敵となり、城下に陣を構えた土佐藩を中心とした官軍に開城した。中堀より外側は、明治初期から改変が進んでいたが、城の中心部については、明治4年(1871)以降は兵部省(のち陸軍省)の管理となった。しかし城郭建物は老朽化を理由にそのほとんどが取り壊され、明治17年(1884)には天守も取り壊したなった。
 天守の解体後、明治35年(1902)に初代藩主松平頼重を祀る玉藻廟が天守台上に建設されると、それに伴う社域としての景観が長く続いてきた。しかし、天守台の発掘調査及び石垣解体修理工事に伴い、平成18年(2006)に玉藻廟及び周辺の社殿関連施設が撤去され、現在は修理された天守台と天守地下1階が公開されている。
 平成19年(2007)から平成25年(2013)にかけて、天守台石垣では大規模な解体・積直し工事を行った。高さ13mを誇る天守台石垣のほぼ全体を一時的に解体し、当時の石材と伝統的な技術を用いて修理するという大規模な工事である。工事に際して9千個を超える石材の位置や状態についてカルテを作成し、検討を行いながら出来る限り元の位置に元の石材を積直した。また、その際以下のような破損要因の解明及び解消も図られた。
 解体の際に明らかになった石垣破損の要因としては、①高松城は砂堆の上に築城されており、周辺地盤の安定性が低いこと、②堀に引き込んだ海水の干満により石垣内部の盛り土が吸い出されること、③盛り土そのものにも砂堆の土砂が用いられており、強度が弱いこと、④天守が失われたことで、雨水が直接石垣に降る注ぐようになったこと、などがあげられる。これらの破損要因について、それぞれ補強策を検討し、石垣の安定性を増すように修復工事が行われた。
 明治15年(1882)12月30日撮影。高松城天守閣写真が(ケンブリッジ大学に残されている。)
資料等:現地説明版&高松市発行『史跡 高松城』
撮影日:2015年4月11日

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天守台地下と礎石
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鞘橋と二の丸方面
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瀬戸内海より海水を取り入れる水門方面
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三の丸(披雲閣)方面
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詳しい地図で見る

史跡 高松城址【桜の馬場】
 本丸・三の丸の南側にあたり、現在では桜が植えられた広場として整備されている。本来の桜の馬場は現在よりも西方に延びていたが、西側は市街化されており、現在は東側の3分の2程度が史跡の指定範囲となっています。
 生駒家時代には桜の馬場中央南端に大手(古太鼓門)が設けられており、その西側には厩や藩士の屋敷などが所在し、東側には藩政を行う場所として対面所が見られた。
 その後、松平家による改修により、御殿と対面所の機能を一体化させ、三の丸に新たな御殿が設けられ、武家屋敷も桜の馬場の外に移された。また、南側にあった大手を廃し、桜の馬場の東端に新たに大手を設けている。さらに、東西端に太鼓櫓、烏櫓が配置された。
 平成16年(2004)8月の台風16号による高松の高潮被害で、周辺の樹木は壊滅的な被害を受けた。玉藻公園の桜も例外なく全滅した。
 現在は、ソメイヨシノを主体に、しだれ桜、八重桜(関山)などが植わっている。
資料等:高松市発行史跡高松城址など
撮影日:2015年4月11日

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下記の写真は2009年撮影の桜の馬場です。
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名勝・内苑御庭

高松城址 名勝・内苑御庭(ないえんおにわ)
 披雲閣・内苑御庭(ないえんおにわ)はJR高松駅前にある玉藻公園内にある松と枯山水が見事な庭園です。
 高松城は別名玉藻城とも呼ばれていますが、これは万葉集で柿元人麿が詠んだ「玉藻よし」という讃岐国の枕詞をとって、この辺りの海が玉藻の浦と呼ばれていた事によると言われています。今は、その城跡の一部の主要部分のみが玉藻公園となってその名を伝えています。
 生駒正親が築城した当時は、披雲閣あたりには壮大な御庭が広がっていたといわれます。松平氏の時代になって第2代藩主頼常公の頃に、藩主の住居であり政庁である披雲閣と呼ばれる御殿が建てられました。
 現在の庭は藩政時代のものをもとに大正5年頃に造られた枯山水の庭です。庭園内には空川が北東から南西に流れ、三つの築山がつらなり松を中心にウバメガシ・サツキ・梅・蘇鉄などが茂っています。木々の緑が櫓の白壁に映え、大石灯籠が木々の間から見える風情は昔の大名の優雅な生活を偲ばせます。
 また、築山の畔の石組は山石・川石・沢石などを巧く組み合わせ、石の稜線を生かして三段にも組まれています。他にも、高さ2m、重さ11トン余りといわれる大手洗い鉢や大きな飛び石、一つの石から精巧な石橋等があり、栗林公園とは異なった風情です。文章は公園内案内板より転載しました。
 披雲閣
 松平藩政時代にも、この地に披雲閣と呼ばれる広大な建物(現在の披雲閣の約二倍)があり、藩の政庁及び住居として使われましたが、明治5年に老巧化のため取り壊されました。その後、松平家第12代当主松平頼壽(よりなが)氏により3年間の歳月と当時のお金で15万余円を投じて現在の披雲閣が大正6年に完成しました。建坪は2000平方m(約600坪)でしたが、一部取り壊しや移築により、現在は約1887平方m(約570坪)です。この豪壮な和風建物には142畳の大書院をはじめ、槙の間・蘇鉄の間などの雅趣を生かした各部屋があり、波の間には昭和天皇、皇后両陛下がご宿泊なられたこともありました。
 昭和29年に城跡とともに高松市に譲渡されて、現在は会議・茶会・生花展などの会場として利用され、広く市民に親しまれています。文章は公園内案内板より転載しました。
 披雲閣は平成17年10月6日に高松市指定有形文化財に指定されました。
 写真は2009年11月5日撮影

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