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海の常夜灯(燈篭台)

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岬にある灯籠台や港にある常夜燈(楼)の書庫
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乙子(おとご)常夜灯

名  称:乙子(おとご)常夜灯
住  所:岡山県岡山市東区乙子
マピオンマップ↓↓↓↓
http://www.mapion.co.jp/m2/34.62635728048353,134.03787015002771,17

作 者:
制作年:明治七年七月廿七日
構 造:石造四段基壇  竿の正面に聚鱣社 左に常夜燈 右に明治七年七月廿七日
規 模:全高約6.3m 本体高約2.8m
文化財:
資 料:現地説明碑、岡山県の近代化遺産-岡山県近代化遺産総合調査報告書
撮 影:2016年7月20日撮影
解 説
 乙子常夜燈は、平成十六年度「岡山県近代遺産」にとりあげられた。その特徴は竿の部分に刻まれている「上道郡升田村 聚鱣社」にある。
 鱣(せん)=「うなぎ」。
 聚鱣社とは、岡山県東区升田(旧上道郡升田村)など漁業者十数名が出資してつくった魚類の販売会社で、玉島・妹尾に支店をもつ勢いであったが、近年競争激化により解散を決したとある。(『山陽新聞』明治二十四年四月二十八日付)
 なお、升田には、羅針盤の残る船主「山田屋」、「問屋橋」に名を残す通称「うなぎや」があったが、何れも聚鱣社との関係は未だ定かではない。
 ここ乙子地先は、鱣=(鰻)の良く獲れた所で、「うなぎ掻き」造りの鍛冶屋さえあった。乙子常夜燈は、乙子地区の魚類買い集め舟の目標として造られたものと考えられ、その立派な形、大きさから明治七年(1874)建立時の漁獲の豊かさと聚鱣社の隆盛が偲ばれる。
 平成十二年十月六日鳥取県西部地震により頂部(宝珠)が落下紛失したが、平成十九年秋、工事請負業者の善意により再生された。
 平成二十二年、吉井川左岸堤防が西に新しく築堤されたため、地元の要望により乙子常夜燈も、西南西約17mに往時と同じような水際の現在地に移築された。
 この付近は以前「乙子の渡し」の発着場として、対岸の沖新田とを結ぶ交通の拠点の一つであったといわれている。
 対岸の九蟠にも常夜燈が築造されている。

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1998年の乙子常夜燈
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大灯籠

大灯籠 香川県さぬき市津田町津田
 大灯籠は瀬戸内海国立公園、津田の松原の中にある。江戸時代末期砂糖の積出が盛んであった頃、津田梅川尻へ入る回船の目印として建てる予定であったものである。石材のみとってそのまま放置。大正十三年、時の香川県知事「佐々木秀司」の尽力により、神社境内より発掘し、修理築造したもので、松原の一点景となっている。
 梅川尻周辺には、水産系会社数軒があり、往年の遠洋漁業で栄えた面影も残っている。町の名前も「船町・南船町」が今もある。
文は、香川県立図書館蔵『津田町史』より転載しました。
場所は、スポットノート『灯台map』に投稿します。
写真は、2014年1月31日撮影
 
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西大寺港(九蟠漁港)

【西大寺港(九蟠漁港)】
 西大寺港(九蟠漁港)は岡山県岡山市東区九蟠の吉井川河口西の児島湾入口にあります。
 九蟠港は吉井川河口という地の利を得て岡山藩の商港として江戸や大坂方面との往来も盛んに行われ繁栄を極めた。町の面影はないが、唯一の面影が石積みの燈籠です。
 石積みの燈籠(九蟠港燈籠=石灯明台)日本の近代化土木遺産現存する重要な土木構造物2800選
 この灯篭と幸島外波の灯篭(未確認)と小串の灯篭(未確認)の3つが相対して、瀬戸内海から児島湾・吉井川への航路を示し航行の安全を守り続けた。
 往時の面影残す石積みの灯明台が平成2年(1990)3月、500万円の県費をもって修理復元された。火袋(木桟組)も潮風に当り腐食も激しいので、修復時にステンレス製で作られその周りを木枠で覆っています。黒鯛養殖場(廃業)の中には「金毘羅宮」「瑜伽宮」の石灯籠が移転保存されている。この石燈籠も破損が著しく小石などで補強されているが何時倒れてもおかしくない状態で建っています。紀元二千○○世とある。基壇の石組には刻まれた石は無い。
 此の地は元禄五年岡山藩主「池田綱政」が時の郡代「津田永忠」に命じて干拓した沖新田の一部であり地名は干拓工事の番号を以て当初沖新田九番と呼ばれ今日の九蟠に至っている。

 文は、現地最上稲荷神社石碑&聞き取り&岡山県立図書館蔵『わたしたちのふるさと九蟠』などより参照しました。(岡山県立図書館郷土資料班協力)
 写真は2012年5月22日撮影
 場所はワイワイマップ『旧海の道の燈篭台、海の常夜燈と岬の灯台map』にスポット投稿します。

 西大寺港(九蟠漁港)
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 石灯明台(九蟠港燈籠)全高約8.5m
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 金毘羅宮・瑜伽宮献灯石灯籠
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旧庭瀬港と常夜灯

【旧庭瀬港と常夜灯】
 旧庭瀬港と常夜灯は岡山県岡山市北区庭瀬に存在しています。
 庭瀬は、近世まで足守川とその支流を利用した船運が盛んに行われており、地区内に張り巡らされた堀・水路等に活用し水郷の町として発展してきた歴史を有しています。されに陣屋町を東西に貫く庭瀬往来(鴨方往来)は、近世山陽道とも結ばれていることから、陸路と水路の交わる交通の要地であったといえます。
 1600年代中頃の寛永年間の絵図によれば、絵図の下方に描かれている足守川の河岸には、瀬戸内海を航行する船が出入りし、足守藩の年貢米の積出港としても重要な機能を有していました。この河岸で積荷を海船から小舟に積替えて旧庭瀬港(内港)に入ります。そこには、港町が形成され、庭瀬藩の商業・交通の中心地として栄えました。水路に面しては雁木(階段状の船着き場)が設けられ、入港する船の為木造で大型の常夜灯が1700年代に建てられていました。
 明治24年に山陽鉄道(現JR山陽本線)が開通して以降は、船の往来も減少し、昭和30年代には水路も半分ほどの幅までに埋め立てられ、また常夜灯も昭和29年の暴風により被害をこうむり、すべて取り壊されましたが、その基礎(地伏石)は現位置で保存されていました。
 庭瀬・撫川地区の堀や水路による町割り、城域や家屋の町なみの景観保全を目指す住民運動は、これまで活発に行われており、その盛り上がりを受けて、当時の古写真や地元の方々の記憶をもとに、埋め立てられていた旧庭瀬港(内港)を部分的に再現しました。また当時の常夜灯の石積護岸の一部と約3m四方の基礎(地伏石)を使用して常夜灯を再建し、当時の旧庭瀬港(内港)の景観を平成十九年度に復元しました。
 以上の文は現地説明板より転載しました。
 写真は2012年5月22日撮影
 場所はワイワイマップ『歴史的縁の地、文化財、資料館などのMAP』にスポット投稿します。

 旧庭瀬港
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 商家
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 金毘羅宮
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 妙見宮・正八幡宮献灯
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 観音堂
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 地蔵堂
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牛窓燈籠堂

【牛窓燈籠堂】
 牛窓燈籠堂跡は岡山県瀬戸内市牛窓町の「唐琴の瀬戸」に面した所に建築されています。瀬戸内市指定史跡 平成16年11月1日指定
 瀬戸内海を航行する公・私船舶の航行が頻繁となった延宝年間(1673〜1681)に、夜間通航の標識として備前藩主池田綱政の命によって建設されたものである。
 出崎の突端の岩盤上に割石積みの基壇を築き、その上に木造の燈籠堂を建ててあったが、明治維新後取り壊された。基壇は上端で東西4.3m、南北4.3m、下部で東西4.9m、南北4.9m、高さ2.2m、南北面に石段を造りつけている。
 備前藩が相前後して建設した四か所の燈籠堂の内、完全に残っているのは「牛窓」と「大漂(大多府)」の二か所だけである。昭和63年(1988)、現在の燈籠堂が復元された。瀬戸内市教育委員会
 文は現地説明板より転載しました。
 写真は2011年2月21日撮影

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基壇は史跡指定
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牛窓八景:唐琴の瀬戸
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牛窓伝説の御神石
神功皇后御縁 纜石(ともづないし)
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