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香川県と近県を旅しときの風景・四季を記録したブログ。 古い讃岐も

石塔・石碑標・灯篭

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六番川の大樋

沖新田干拓三百年記念碑(六番川の大樋)
住所:岡山県岡山市東区升田
マピオンマップ↓↓↓↓
https://www.mapion.co.jp/m2/34.61839580624723,134.00187490505286,19
由緒等
 沖新田干拓
 元禄五年(1692)一月、岡山藩主池田綱政の命を受け津田永忠により着手した沖新田大干拓事業はわずか二年間で築堤・潮止・疎水を完成し、約二千ヘクタールの大干拓地が造成された。
 昭和二十一年(1946)十二月二十一日突如として襲った南海地震は、沖新田に大被害をもたらし、平均約五十センチメートルの地盤沈下を生じた。これにより水田は、湛水の被害や塩害に悩まされ、農作物の被害は年々大きく成った。
 昭和三十一年(1956)十月、上南土地改良区を設け、大局的な上南干拓工事に着手し、四年の歳月をかけて完成した。
 上南地区 干拓面積 三百二十八・四ヘクタール
        事業費   三十億一千万円
 この工事の完成によって、風物詩としての「堀田」はなくなった。が整然とした美田に生まれかわり、約百ヘクタールの増反となり、農民の悲願が達成された。
 ここに、明治四十年(1907)に改修された六番川の「大樋」を復元し、干拓記念碑とした。
資料等:現地設置説明版
撮影日:2015年10月8日
近隣施設:岡山城後楽園石灯明台(九蟠港燈籠)

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主基斎田之碑

主基斎田之碑
住 所:香川県綾歌郡綾川町山田上
マピオンマップ↓↓↓↓
解 説 【碑文の解釈】
 大正三年一月大礼の期日を勅定さる。越えて二月五日斎田の選定行われる。主基地方を本県に勅定さる。知事鹿子木小五郎命を承けて綾歌郡山田村に定む。四月諒闇大礼行われる。独斎田旧に依らしむ。知事川村竹治を尋ね臨ませ。吏民を督励して先に備えしむ。四年四月重ねて昌期を勅定す。この月知事若林貴蔵斎田を修祓し播種挿秧いなごに注意し耕して八月斎院の工を起す。九月竣工す。この時斎田の稲よく稔った。十八日抜穂の儀あり収実す。十月、篩えさらに粒選す。この間村民は誠を以って当たり記録された。供穀進納の日が定められた。十一月大嘗祭が取り行われる。聖上主基殿に上られ、さきに奉献された新穀を皇祖並びに天神地祓に請饗される。本県の栄何ものにも勝らんや、このこと終わるや斎田跡をト地してその盛事を記して建碑す。幹太これを承る。すでにその石を選び、貞愛親王の題額を請う。貞愛親王大祭の総裁大礼使である。お許しありこの六月幹太を召してこれを賜う。幹太感激おくあたわず。
大正7年建立 【文中、(、)(。)はありません。読みやすくするために挿入しました。】
 
資 料:現地説明板、
撮影日:2017年3月8日
近隣施設:高山航空公園

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斎田跡
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矢止の松

矢止の松
場所:善通寺市弘田町 やどめ調剤薬局からほんの少し東へ行った所
住所:香川県善通寺市弘田町497−1
説明・伝説
 この北方に昔、南海道の重要な駅であった三井がある。この地方は高倉天皇の御代鶴退治の伝説で知られる源頼政公の荘園であった。頼政公がこの地にあって遠矢を試みたとき矢がこの松にあたり止まったのでこの松を「矢止の松」とよんでいる。
 頼政公は平清盛の専横と憤り治承四年(1180)兵を挙げたが敗れ、宇治の平等院で七十七才を一期として自刃を告げ遂げた。源氏の武将須藤氏はその遺髪を三井に持ち帰り祠に納め其の霊を弔うた。その祠を若宮といい、また、御門・的場という地名並びに恵美須湧の水番に頼政番等の名が現存している。
 『庭の面はまだ乾かぬに夕立の 空さりげなく澄める月かな』 源三位頼政當碑建設後間モ無ク老松ハ枯死セシ○三代目トシテ春日神社宮林ヨリ四米ノ若木ヲ移シ植エタリ 昭和四十六年一月二日植之 石碑裏側より
資料:現地説明板、
撮影日:2015年9月2日
近隣施設:善通寺、

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和泉屋敷石塔

和泉屋敷石塔 (2基)
丸亀市指定文化財 昭和46年8月27日指定
保存場所:香川県丸亀市一番丁 丸亀市立資料館内
解説等
 鎌倉時代、丸亀市川西町北字龍王の辺りは、二村郷と呼ばれ、藤原五摂家の一つである九条家の荘園がありました。嘉禄三年(1227)、九条道家が京都泉涌寺にこの荘園を寄進し、貞永元年(1232)、讃岐藤原氏一族羽床氏の支流である和泉氏が、荘園管理をする地頭として赴任しました。龍王の和泉屋敷は和泉氏の邸宅があったと伝えられる場所で、屋敷内に石塔があったのでこの名がついています。
 その後、石塔は明治の末、春日神社裏の旧川西尋常小学校にありましたが、昭和三年、川西尋常小学校の移転と共に城辰小学校内に移りました。平成七年五月、傷みが激しくなった石塔の保存処理を機に校舎内に移転。平成二十年七月から市立資料館にて保存展示しています。
 石塔は弥谷山産の凝灰岩で造られており、度重なる移転や風化により一部破損、紛失し、現在は双方とも八重になっていますが、元は二段の基礎石と方柱の塔身の上に九重の笠が載せられていました。
 石塔の塔身部分には、それぞれ刻銘が刻まれており、北側塔にキリーク(阿弥陀)の梵字・地頭の刻銘、南側塔にパク(釈迦)の梵字・領家の刻銘などが見られることから、石塔は和泉氏を願主に地頭・領家の繁栄を祈願して造られました。双方とも「應長元(1311)九月日」とあり、建立以来、七百年近く風雪に耐えてきたことを物語っています。
 丸亀市教育委員会 現地説明板より転載しました。
 撮影日:2014年11月20日

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大禹謨の石碑

大禹謨の石碑
住所:香川県高松市香川町大野
由緒等
 自然石に「大禹謨(だいうぼ)」の三文字が彫られた石碑は、百年ほど前に、約100メートル北の香東川堤防で発見され、ここに置かれて地域の人たちに見守られてきた。その後、熱意ある人たちによって石碑の研究がなされ、西嶋八兵衛の筆跡であることがわかった。
 西嶋八兵衛は、江戸時代の初め、伊勢藤堂藩から讃岐生駒藩へ招かれ、多数のため池を造り、新田の開発を行うなど偉大な業績を残した人。
 香東川が東西二つの流れに分岐していたここ大野で、氾濫を防ぐ堤防の大改修工事を行い、現在の西の流れに一本化した。
 石碑は、この時に八兵衛が大野の地に建てたもの。文字のうち「禹(う)」は中国の伝説上の治水の神様である禹王(うおう)のこと。
 この石碑は、禹に習い、人々の豊かな生活を願った西嶋八兵衛の情熱を伝える。昭和三十七年に、実物は栗林公園の庭に移設し模刻を作ってここに置いた。
資料等:平成二十五年十月 大野校区コミュニティ協議会 設置説明版
撮影日:2015年6月19日
近隣施設:一宮寺、田村神社

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拓本
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