震度速報 2019年12月16日 4時15分 気象庁発表
12月16日4時14分ごろ地震がありました。
[観測地域] 千葉県北東部など  [震度] 3  今後の情報にご注意ください。詳細
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石塔・石碑標・灯篭

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筒野の笠仏

 筒野の笠仏 
 香川県さぬき市富田西2487 さぬき市指定有形文化財(昭和47年8月22日) 所有者 筒野通自治会 
 筒野の石幢を土地の人はカサ仏と呼んでいる。筒野の字名は、この石幢に由来すると考えられている。戦前までは、疫病の流行を防ぐための祈願が多く、特に「かさ」(できもの)の病を治療するための祈願者が多かったと言われている。
 幢身の高さは約190cm、八面とも種字、偈などが刻まれているが、摩滅がはなはだしく判読しがたいが、銘文より、造立は鎌倉中期の文永七年(1270)であることがあきらかである。笠の反りは力強く、軒口は垂直に切られており、鎌倉時代の特徴を示している。造立の目的は、刻銘が真言曼荼羅のような意味合いのものであることから、真言の功徳を讃えたものかと思われる。
 凝灰岩製の八角の幢身上にまんじゅう笠状の笠をおいてあるが、笠は別物であるという。安政の大地震で石幢が倒れ、笠が二つに割れたので、明治になって再度建てる時に他にあったものを載せたといわれ(新撰讃岐国風土記)割れた笠は幢身の下に置いてある。
 文は、さぬき市文化協会UPより転載しました。
 写真は、2013年11月21日撮影
 場所は、スポットノート『石塔や石仏などのmap』に投稿します。
 
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両脇に割れた笠が置いてある。
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松坡長谷川翁功徳之碑

松坡長谷川翁功徳之碑
 香川県仲多度郡まんのう町満濃池堰堤
 長谷川佐太郎は松坡と号し、幕末から明治にかけて満濃池の再築に家財を傾けて尽力した人である。
榎井村の豪農の家に生れ勤王の志士日柳燕石と交流し、幕吏に追われた高杉晋作を自宅にかくまうなど幕末には勤王運動にも艇身している。
 一方安政元年に決壊した満濃池は、その水掛かりが高松 丸亀 多度津の三藩にまたがり一部に天領も含まれていた。このため復旧には各藩の合意を必要としたが、意見の一致を見ないまま十六年のあいだ放置されていた。この間長谷川佐太郎は満濃池の復旧を訴えて、倉敷代官所や各藩の間を奔走するが目的を果たせないままやがて幕府は崩壊する。
 彼は好機到来とばかり勤王の同志を頼って上京し維新政府の百姓たちの苦難を切々と訴え早期復旧の嘆願書を提出した。
 この陳情が功を奏し高松藩の執政松崎渋右衛門の強力な支援のもとに、明治二年着工にこぎつけ同三年に竣工した。この間、彼は一万二千両にも及ぶ私財を投入し晩年には家屋敷も失い清食に甘んじている。
 この碑はかれの功績を称え。明治の元勲山形有朋が題字。品川弥次郎が千文したものである。扇山書
 以上の文は、現地石碑説明石板より転載しました。
 写真は、2013年11月16日撮影
 場所は、スポットノート『銅像や記念碑等のmap』に投稿します。
 
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 咸臨丸渡米150周年記念 顕彰碑
 香川県丸亀市本島町泊
 日米修好通商条約批准お使節団が、米艦ポーハタン号の乗船して渡米するに伴い、その随行と遠洋航海実習のため、幕府軍艦咸臨丸が、万延元年(1860)一月十九日、サンフランシスコ目指して浦賀を出航した。咸臨丸には、軍艦奉行木村摂津守・艦将勝麟太郎以下九六人と、近海で遭難し今回送還する米人十一人が同乗した。乗組水夫五十人中三十五人が塩飽の出身であった。
 咸臨丸は出航直後から大暴風に遭遇し、航程三十七日の大半は木の葉のごとく翻弄され、船室に潮が打ち込み炊事もできぬ難航海であったが、乗組員の懸命の努力と、米人の協力よって二月二十六日かろうじてサンフランシスコに到着した。航海中病人が続出し、広島青木の源之助、佐柳島の富蔵ら水夫三人が海軍病院で死亡した。
 帰路は天候に恵まれ、五月五日無事浦賀に入港し大任を果たすことができた。
 咸臨丸の渡米は、日本船による初の太平洋横断として、わが国の海運史上に残る壮挙であった。渡米百五十周年にあたり、ここに世紀の大業に活躍した塩飽水夫の名をとどめ、その功績を永く讃えんとするものである。
 時代の変遷により長い鎖国政策を放棄して、開国を決定した徳川幕府は、新海軍を創設すべく、浦賀においてわが国最初の洋式軍艦鳳凰丸を建造し、長崎に海軍伝習所を設立して、観光丸・咸臨丸を練習船とし、若き幕臣らにオランダ人教官から洋式海軍の伝習を受けさせた。その節、古来幕府の御用船方を勤め、航海操船技術に高い評価を得ていた塩飽に対し、軍艦を操縦する水夫のの徵券を求めたのである。
 塩飽衆は、国恩に報いるはこのときと思い定め、嘉永六年(1853)より文久三年(1863)に至る間、塩飽千二百五十石の所領に対する軍役として、島民から張銀(臨時課金)を徴収し、水夫一人五両の年俸と旅費を支給して、毎年十人の壮丁を選抜し。軍艦乗組員として送り続けた。咸臨丸の水夫もその一員であ。
 幕府海軍創設の陰に、塩飽の島民の大きな奉仕があったことは世に知られていない。
 幕府は徴用に応じた水夫達は、やがて明治の海運界の各層に進出し、新時代の発展に大きく寄与することとなった。
 塩飽史談会 会長 入江幸一
 以上の文は、石碑から転載しました。
 写真は、2013年11月1日撮影
 場所は、スポットノート『銅像や記念碑等のmap』に投稿します。
 
名     姓   年齢  出身島
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兵吉   豊島      本島笠島
善三郎          本島笠島
清蔵   高島  45歳 本島笠島
吉之助 岩村      本島新在家
実次郎 大熊 24歳  本島甲生
政太郎 石川 26歳  本島泊
大助   石川       本島泊
松太郎 横井 18歳  本島泊
延次郎 松井 40歳  本島泊
角之亟 宮本 31歳  本島泊
宮三郎 平尾       本島宮ノ浜
幸三郎 大倉 19歳  本島大浦
金左衛門高橋      牛島
滝蔵   郡家 21歳  牛島
幸吉        39歳  広島立石
仁作   曽根       広島立石
弥十郎 松井       広島江之浦
国蔵   東         広島江之浦
源次郎 平田 33歳  広島茂浦
友吉              広島茂浦
和三郎 森         広島茂浦
寅吉   森         広島茂浦
仁助   向井       広島市井
伊三郎 山下       広島青木
源之助 岡田 25歳  広島青木
富蔵   平田 27歳  佐柳島
常三郎 前田 26歳  佐柳島
吉松        46歳  高見島
清右衛門          高見島
竹蔵              高見島
好平   玉谷 40歳  高見島
音吉              櫃石島
勘次郎 森   21歳  櫃石島
治作   生田 22歳  櫃石島
善四郎 島本 23歳  瀬居島
 
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高見島の五輪塔

 高見島の五輪塔 香川県仲多度郡多度津町高見浜
 高見島は古くから瀬戸内海の安願を占め海上交通の拠点として古くから経済的にもめぐまれた島であった。一族と子孫繁栄をもとめて多くの人々が移り住んでた。すでに江戸時代の始めの頃には、人口千四百人を数えるほどであった。
 有力な家族がこの島を根拠として活躍し回船の交易によって島の発展を図った。この一族が祖先の慰霊と氏族の守護のため建立したのがこの五輪の石塔であろう。その建立の時期は様式からみて室町時代と推察される。
 伝承によると大きな供養塔は高見三郎宗治のものといわれ、高見の島名はこの名前に由来すると伝られる。また別の口伝では児島高徳ともいわれている。いずれにしてもこの風花した石塔からその名を明らかにすることはできないが、近世の大店に匹敵するほどの勢力のあった一族が高見島を支配していたことはまぎれのない事実である。いまこの島の人々の力により善福寺山麓に埋もれていた五輪の塔をここに移転復元して祖先の霊を供養する所似である。
 昭和五十三年五月吉日 現地石碑より転載しました。
 写真は2013年10月30日撮影
 場所はスポットノート『石塔や石仏などのmap』に投稿します。
 
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墓地(埋め墓)
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高見八幡宮
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入江四郎左衛門の墓

 入江四郎左衛門の墓 香川県丸亀市本島町
 高さ327cm、幅53cm、位牌型の花崗岩製で、下部には蓮華と相対する狛犬が彫られている。
 元和六年(1620)五月二十一日に没した入江四郎左衛門道慶弘光夫妻の供養塔として子の光信によって建てられた。
 四郎左衛門は入江家の初代で、宮本伝太夫、吉田彦左衛門、真木又左衛門と四人が世襲で塩飽諸島を統治する年寄役を努めた。天正の頃すでに年寄を勤め、慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いでは宮本伝太夫とともに塩飽水軍を率いて参戦し、徳川家康から領地の朱印状を受けるときなどに活躍した。塩飽勤番所とともに国の史跡に史跡に昭和四十五年七月二十二日指定されている。 以上の文は、現地丸亀市教育委員会説明板より転載しました。
 写真は、2013年10月10日撮影
 場所は、スポットノート『石塔や石仏などのmap』に投稿します。
 
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