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川東の五輪塔
有形文化財 香川県さぬき市大川町富田中(さぬき市歴史民俗資料館歴史の庭)
川東の五輪塔は、富田中字土居、長福寺跡と呼ばれる西側の雑木林の南面に散乱していた各部材を復元したものである。材質は通称火山石と呼ばれる硬質の凝灰岩で各部材とも揃っている。 総高183.1cmを測り、六尺塔であることがわかる。基礎は高さ32.7cm、幅は上端、下端とも84.0cmで四面とも素面である。上端はほお水平で、水輪を固定するために 直径53.0cm程度の浅い凹みが穿たれているが不明である。
塔身は高さ58.5cm、最大径は上端から27.0cmの箇所にあり、直径82.0cmを測り、やや押しつぶされた球形を呈する。屋蓋は高さ56.8cm、軒部の厚さは中央で15.0cmでやや内面に傾斜している。請花は高さ14.8cm、宝珠の高さ19.0cmを測り一石で造られているが、屋蓋のほぞ穴に一致しないことから他の五輪塔の部材の可能性が高い。 大川町史では屋蓋の軒端が垂直にならずやや内傾すること等の特徴から制作年代は鎌倉時代末期から室町時代初頭と比定しているが、塔身がやや押しつぶされた球形を呈し、 基礎の幅に対する高さの比率が低いことなど五輪塔としては非常に古い特色を示している。 文は、さぬき市文化財保護協会大川支部HPより転載しました。 写真は、2013年9月25日撮影 場所は、スポットノート『石の建造物map』に投稿します。 |
石塔・石碑標・灯篭
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西嶋八兵衛頌徳之碑
香川県高松市木太町2603 高松市木太北部コミュニティセンター内
西嶋八兵衛 慶長元年(1596)〜延宝八年(1680) 遠江国浜松に生れ、寛永二年(1625)讃岐国生駒藩に出仕する。土木技術家として当時大雨と旱魃に苦しむ領内を検分し、恒久的な治水利水事業を計画実施した。 特に木太町内の詰田川治水工事と洲端(すべり)、札場(ふだば)、夷(えびす)、等の新田開発に貢献は長く後世に伝うべきである。 ここに地域おこし事業の一環としてこの碑を建立する。 平成五年十二月吉日 木太地区地域おこし事業推進委員会 石碑より転載しました。 写真は、2013年9月24日撮影 場所は、スポットノート『銅像や記念碑map』に投稿します。 西嶋八兵衛年譜
慶長元年 (1596) 西嶋八兵衛之尤(後に之友) 浜松に生まれる。 慶長十七年(1612) 籐堂采女元則の斡旋により 伊勢藩主籐堂高虎に150石で仕える。 元和元年 (1615) 大坂冬の陣、夏の陣において 高虎の側近として記録方に従事 元和五年 (1619) 高虎 京都二条城増築の縄張りを命じられ その絵図作成にあたる。 元和六年 (1620) 高虎 大坂城修築総奉行 八兵衛が工事見積もりを担当 元和七年 (1621) 讃岐藩主生駒正俊死去。その子高俊11歳で家督相続。外祖父である高虎が後見役を務める。八兵衛「讃岐国仕置」を命じられ讃岐入り(26歳) 元和八年 (1622) 藤堂家へ帰参 寛永二年 (1625) 前年讃岐に大干ばつあり、高虎より讃岐国へ派遣される。(二回目) 柞田村の悪田改良を行う。 寛永四年 (1627) 龍満池、小田池、鎌田池、山大寺池を築造 寛永五年 (1628) 満濃池(源平以来放置され、池の中に村ができていた)の修築開始。三谷池増築 寛永六年 (1629) 高虎 八兵衛を江戸に呼び戻し、500石加増計1000石、老中土井利勝の依頼により 再度讃岐の国へ遣わされる(三回目) 寛永七年 (1630) 岩瀬池、岩鍋池増築 寛永八年 (1631) 満濃池修築完成(貯水量500万トン 3万5千石の農地開発) 寛永十年 (1633) 亀超池完成 寛永十一年(1634) 一の谷池着手 寛永十二年(1635) 神内池築造 寛永十四年(1637) 松島より新川にいたる堤防を築き 福岡、木太、春日の新田を開く、このころ香東川の水路工事(東側を堰き止め 西側一本にする) 寛永十六年(1639) 一の谷池完成 井関池着手 寛永十七年(1640) 生駒騒動により 生駒氏改易され出羽国矢島に移る。讃岐国の幕府への引き渡しの際、請取上使の案内を命じられ讃岐入り(四回目)その後伊勢に戻る。(45歳) 正保三年 (1646) 藤堂家領の干ばつに伴い 領内支配を命じられ。池、川、井出、堤、新田などの開発にあたる。 慶安元年 (1648) 城和奉行となり 大和国・山城国の幕府開拓の5万石を支配(53歳) 万治元年 (1658) 伊賀奉行を命じられるが その後再び城和奉行を命じられる。 延宝四年 (1678) 城和奉行を退き隠居(81歳) 延宝八年 (1680) 3月20日没 伊賀上野市正崇寺に葬る(85歳) 平成五年 (1993) 12月 新田を開いた木太地区に「西嶋八兵衛頌徳碑」建立 平成十七年(2005) 5月 栗林公園「大禹謨」横に「西嶋八兵衛顕彰碑」を建立 |
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みはか 香川県仲多度郡多度津町山階阿庄
日本に三つしかない墓の一つであるという。 みはかのある処へは絶対に雷が落ちないので阿庄へは昔から雷が落ちた事がないといわれている。 四箇村史
日本書記によれば仲哀天皇の皇后、名は息長足姫尊(神功皇后)、仲哀天皇の急死後、朝鮮に出兵し新羅を討ち、百済・高句麗を帰服させた事が記されている。三韓征伐の帰路瀬戸内海で、嵐に会い弘田川の河口に避難のため当地に立ち寄って当分の間、ここに留まったものと推定され、多分、皇子か身分の貴い人を葬ったのではないかと思われる。 文は、阿庄 みはか保存会 説明板より転載しました。 みはか(御墓/陵)?は道路を背に小高く盛り土をした上に数基の石塔がある。一番大きな石塔は「経塔」でしょう
か。阿庄地区民によるコンクリート基壇などで、美しくはなっているが、変わってしまているのか。左端には五輪塔のような石塔もある。
写真は、2011年3月11日撮影 場所は、スポットノート『石の建造物map』に投稿します。 |
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ひじりごさん 香川県さぬき市寒川町
土地の人は「ひじりごさん」といっていつの時代からかは不明ですが、お祀りをしています。 ひじりごさん=毘慈梨護? 高野聖(空海の弟子)とも云われている。真偽は不明です。
何れにしても、古い石仏に違いない。 写真は2013年5月22日撮影
場所はスポットノート『石塔・石碑map』に投稿します。
写真参考
隣にある五輪塔と思われる塔がある。少し積む順番が違うような気がします。普通は、下から。基台・四角(基礎)・円(塔身)・三角(笠)・半円(請花)・宝珠 |
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新川庵経幢 香川県さぬき市寒川町 さぬき市指定有形文化財(建造物)
北側の石幢の高さ2,3m、南側の石幢の高さ1,76mで、もと笠塔婆であったと思われるが、願掛けのために建てられた供養塔と言われている。 この石幢は二基とも、鎌倉時代に建てられたといわれています。元は男山神社境内にありましたが、藩政時代末期に新川神社境内に移転、のち明治のはじめに、この地に再移転されました。 この石幢は経幢とも言われ、幢身西面に「永仁三年閏二月 願主左近将監無主守俊敬白」と刻まれています。 永仁三年は、西暦1295年にあたり閏年で鎌倉時代末期に当ります。左近将監というのは左近衛府の第三等官の役人です。無主とは主人なしで、家来ではないことを意味しますが、文字が不鮮明で「兵主」とも読めないこともありません。「兵主」はわが国の氏姓の一つであり、「指揮官」という意味もあります。 いずれにしても、元寇の戦いに出陣したこの地の兵士の霊を弔うために建てたものといわれています。以上の文はさぬき市教育委員会・さぬき市文化財保護協会の現地説明板より転載しました。 石造建築物の一つである「石幢」は、中国では唐代に既に建てられていたらしいが、わが国では鎌倉末期のものが最古で、室町時代のものが多いという。
新川庵にある二つの石幢は風化が激しく刻字の判読は難しく、「閏2月」と「12月」「再2月」、「右近」と「左近」、「無主」と「兵主」などの異論はあるが、北側の石幢の裏側には、「永仁3年(1395)乙未閏2月(再2月)5日(12月5日)願主左(右)近将監無(兵)主守俊敬白」という刻字がある。 二つの石幢ともに大きいので、古さと大きさで希少価値は高い筈であるが、この二つの石幢は、もと神前八幡宮にあったものが弁天社(現在の新川神社)へ、そして現在地新川庵へと移されたとされており 、その移転の過程で、残念なことに、石幢を構成している部品の石が別個のものの取り合わせになってしまっているという。 以上の文はさぬき市文化財保護協会HPより転載しました。 写真は2013年5月19日撮影
場所はスポットノート『石塔・石碑などのmap』に投稿します。 |



