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中山のきりしたん灯篭
小豆島町中山の殿山ダムから湯舟山蓮華寺に行く途中に地区の墓地近くに単独で建っている。なぜ此処にあるかは不明である。
隠れキリシタンの信仰の偶像物の一つでしょうか。三角形のキリシタンの三位一体を現す図形がはっきり残っている。(三位一体=「父」と「子」と「聖霊(聖神)」)
場所は、スポットノート『キリシタンゆかりのmap』に投稿します。
写真は2012年9月13日撮影
小西行長 小豆島を預かる
瀬戸内海の要衝、小豆島へ、いち早くルネッサンス文明の光が射し込んだのは今から四百四年前に遡る。キリシタン・イエズス会の宣教師サンフランシスコ・ザビエルが天文十八年(1549)に鹿児島に上陸して、キリスト教を布教してから三十七年後天正十四年(1586)の夏のことである。 このときの事情をバデレ・ルイス・フロイスは、天正十三年(1586)十月一日付け(長崎発信)で、イエズス会総長に次のように報告している。 「筑前殿(秀吉)はアゴスチノ(行長)に大いなる名誉と恩賞を与え、全領土の艦隊司令長官の称号を授けた。アゴスチノは、小豆島(Condoxima)と称する一つの島を預かり、その管理権のみを有していたが、羽柴は大いなる収入全部を付してこれを行長に与えた。」 この恩賞とは、天正十三年三月二十三日、秀吉の根来・雑賀攻めがあり、この時行長は水軍をもって大活躍をした大功によるものであった。 小西行長の生いたちは「絵本太閤記」には備前の国主・宇喜多直家の城下に年久しく住居する呉服商人魚屋(なや)弥九郎(備前軍記には九郎右衛門)という者あり、その富栄えて、直家の軍用金を調達し、町人ながら城中を心のまま往来し、直家は常に弥九郎を臣下同様に心易くしていた。弥九郎は年老いて、泉州堺の町人小西高佐の子弥九(襲名か)を養子とした。このとき二十一歳「力強く、智謀秀で、色白く背高く、尋常の者と見えず、大胆不敵の男なり、」とある。 文は藤井豊文庫蔵 藤井豊著 小豆島とキリシタン 3ページより転載 |
石塔・石碑標・灯篭
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阪出墾田之碑 坂出市指定有形文化財(建造物) 坂出市京町3丁目5-5
文政十二年八月(1829)坂出墾田は三年余の月日と久米通賢の辛苦によって竣工した。藩主松平頼恕は大いにその功を称え、その偉大な業績を不朽とするため、旧地と墾田地の境で、墾田地の東西中央にあたる天神社境内にこの碑を建て顕彰した。 製作は江戸に於いて行われ、文は儒員岡内棣に命じ、書は当時楷・隷書日本一と称せられた加賀藩の河三亥(市河米庵)に特に依頼し、彫刻は江戸の名工広瀬群鶴の子群亀を選んで刻させたもので、文政十二年十二月、海路遠くここに運んだと云う。この碑の建立に藩主の熱意のほどがしのばれる。 かくのごとく該碑石は、坂出市の発展の起点として大きな意義を持ち、また江戸時代碑石の代表として貴重である。 このため、昭和三十二年一月十一日、坂出市文化財保護条例によって指定されたものである。 文は現地説明案内板などより転載しました。 写真は2013年4月24日撮影 場所はスポットノート『石塔・石碑などのmap』に投稿します。 菅原神社(天満神社) 祭神:菅原道真公 坂出市京町三丁目
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西光寺支坊の通賢の墓 香川県坂出市寿町3丁目
久米通賢は天保12年(1841)に亡くなりました。その一生は社会への報恩・奉仕に捧げられたといえます。
坂出の人々は通賢をしのびつつ製塩に励み、弘化3年(1846) 宇多津の西光寺にお願いをし、庵を建て通賢や墾田関係者の位碑を祀りました。また明治時代には,墾田の捨石に通賢の名前を刻みお墓としました。毎年命日(5月7日)になると法要が行われています。 文は古のロマンのまちさかいでより転載しました。
http://www.city.sakaide.lg.jp/inishie/main/kanko/kanko006s.html 撮影日 2013年4月24日
場所は スポットノート『石塔・石碑などのmap/仏閣map』に投稿します。 坂出市郷土資料館と久米通賢
http://blogs.yahoo.co.jp/takamaturocky/31384511.html |
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久米 通賢(みちかた・つうけん)碑と墓 香川県東かがわ市引田町馬宿
安永9年(1780)讃岐国大内郡馬宿(現在の香川県東かがわ市)の農家に生まれる。〜天保12年5月7日は江戸時代の日本の発明家、暦学者、測量士、洋学者などである。 文政7年(1824)のころ、財政難に陥っていた高松藩の第9代藩主松平頼恕(よりひろ)は、通賢の多才な才能を見込んで財政再建策を頼った。通賢はこれに応えて阿野郡坂出の浜に新たな塩田を開発することを進言。 文政9年(1826)高松藩はこの案を採用し、通賢は普請奉行に任じられた。通賢は塩田開発の陣頭指揮を執るだけでなく、自ら率先して作業に参加したため工夫達の士気も上がり、工事ははかどった。ところが高松藩の財政難は深刻で、途中から塩田開発工事資金がとどこおるようにった。通賢は工事を完成させるため、私財を投入して工事を継続させた。この献身的な働きのおかげで文政12年(1829)に坂出の東大浜、西大浜に入り浜式塩田がついに完成した。藩主頼恕は大いに喜び、通賢の功績を称えるため、現在も残る「阪出墾田之碑」=(坂出市指定有形文化財)を建立した。この塩田完成で坂出の塩生産量は日本全体の約半分を占めるまでにいたり、高松藩の財政をうるおし、戦後に工業地域に転換されるまで塩業は讃岐国・香川県の代表的産業となった。 通賢の生家は四国村に現存 銃や発明品などの通賢の偉業は坂出市郷土資料館にて展示している。
坂出市郷土資料館と久米通賢 文はWEBより転載しました。 写真は、2012年1月31日撮影
場所はスポットノートに『石塔・石碑などのmap』に投稿します。
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芳室文塚と松風塚
志度寺境内薬師堂の南側に二つの塚が有る。一つは、大阪俳人談林派俳諧の指導者椎本芳室の文塚、いま 一つは、芳室の俳友であり、平賀源内先生を育てたスポンサー三千舎桃源の松風塚である。
椎本芳室 椎本芳室が延享四年(1747)3月4日84歳で没したが、没後、東讃の俳人が師を偲んで高松市西方町松岩寺に 、「椎本芳室翁文塚」を建立し、毎年門弟達が追悼句会を開いていたが、文塚が何時の間にか姿を消し、高松市峰山墓地に捨てられているのを発見し、志度寺境内に移転したものである。
三千舎桃源
松風塚は、天明六年(1786)9月15日、三千舎桃源が71歳の時、自分の歯を壷に入れて埋め、その上に塚を建 て、「松高し わが秋風の 聞き處」の一句を刻んだ、別名「落歯塚」と呼ぶ句碑である。歯を入れた壷の
外蓋は、平賀源内先生の指導で源内焼を焼いていた名工脇田舜民の作である。二百数十年前、俳句で結ばれた親友の塚が、志度寺の境内で肩を並べて建てられているとは奇しきさだめである。
文はさぬき市文化財保護教会志度支部HPより転載しました。
写真は2013年2月27日撮影
場所はスポットノート『石塔・石碑などのmap』にスポット投稿します。
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