地震情報 2019年12月16日 4時16分 気象庁発表
12月16日4時14分ごろ地震がありました。
[震源地] 千葉県東方沖  [最大震度] 3 今後の情報にご注意ください。詳細
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生駒雅楽頭親正の墓

 生駒雅楽頭親正の墓 香川県さぬき市志度 志度寺境内
 白色の角礫凝灰岩で作られた、総高2.78mの墓塔である。墓塔に刻まれた種字は風化が著しく消滅してい
る。 さぬき市指定文化財 史跡指定
 隣の海女の墓は、「生駒家の先祖」に当たるとして志度寺を崇敬。八ヶ條の定め書を下して同寺の保護に力
を注いだ。親正は慶長八年二月十三日、七十八歳で生涯を閉じた。高松弘憲寺にも墓がある。
 三代正俊は慶長十五年(1610)に、母永福院とともに、親正の菩提を弔うために、海女の墓の東方に五輪塔
を建てた。
 生駒正親は美濃国土田郡に生まれる。織田信長に仕え、のち豊臣秀吉に従って身を起こし、賎ヶ嶽、小牧
山の合戦で戦功をたてた。天正十五年八月、十七万石を與えられて讃岐の国主となる。高松城、丸亀城を築
き、地元郷士を重用して善政を行う。朝鮮出兵のあと秀吉は伏見へ呼び、「中老職」を與、国政に参画させる

 関ヶ原の合戦には豊臣方に味方したため、一時高野山に身を隠したが、息子一正の東軍での軍功に免じて
罪を許された。
 さぬき市文化財保護協会説明板&HPより転載しました。
 写真は、2013年2月27日撮影
 場所は、スポットノート『石塔・石碑などのmap』にスポット投稿します。
 
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海女の墓と五輪塔群

 海女の墓と五輪塔群 香川県さぬき市志度志度寺境内 さぬき市指定史跡 平成2年12月18日指定 
天武の昔、淡海公藤原不比等は、唐の皇祖妃から送られた面向不背の珠が、志度沖で竜神に奪われたため、身分を隠して都から志度の浦を訪れ、純情可憐の海女と恋仲になり一子房前が生まれた。淡海公から事情を明かされた海女は、瀬戸の海に潜り竜神と戦い珠を取り返したが、竜神の為に傷付き真珠島で命を果てた。
房前はのちに藤原家を継ぎ、大臣となった。ある日父より母である海女のことを聞かされ、行基を連れて志度を訪れ、志度寺の西北一丁あまりの所に千基の石塔を建立し、法華八講を修して亡き母の菩提を弔った。
中央の大きな五輪塔が海女の墓と言われ、左右の円柱形の二基の石塔は内部を空洞にして経典を収める経塔である。
 毎年海女の命日である6月16日には大法会が行なわれ、十六度市が立ち、千三百余年の昔をしのぶ供養が今もなお続けられている。また、謡曲「海士(あま)」、浄瑠璃「大織冠」、歌舞伎「面光不背の玉」などで今に伝えられている。
文はさぬき市文化財保護委員会志度支部HPより転載しました。
 謡曲「海士(あま)」と海士の墓
謡曲「海士」は、海士の珠取り伝説と女人成仏を主軸にした母性愛物語である。
藤原房前は生母が志度浦の海士である事を聞き、追慕の情にたえず此の地を訪れた。
出会った海士から「奪われた面向不背の玉を竜宮から取り返したならば、生まれた子をせし世嗣にするとのひたむきな約束のもとに海底に潜り、宝珠を取り返して命を失った。自分は房前大臣の母の幽霊である」と我が子房前の追善の経に引かれ、成仏した海士は竜女の姿で現われ喜びの早舞を舞い、孝養をたたえる。
藤原不比等(淡海公)の子房前大臣は、僧行基と共に本堂を再建し、千基の石塔や法華経を納めた経塚を建立して供養を営み、また海士の縁として此の地を玉の浦と呼んだという。孝養の深さを慕ばせる海士の墓である。
本堂脇のある謡曲史跡保存会説明板より転載しました。
 写真は、2013年2月27日・2013年3月27日撮影
 場所は、スポットノート『石塔・石碑map』にスポット投稿します。
 
海士の墓
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石塔群
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露塚と東林寺

【露塚と東林寺】
 露塚と恵遠山放光院東林寺は香川県さぬき市志度にあるお寺で宗派は浄土宗です。

 −−三千の舎(みちのや)桃源の露塚−−
 『露とちるこの身は草に置ねども』の辞世の句を残して、寛政6年(1794)8月、79歳でこの世を去った「三千舎桃源」は、志度が生んだ先覚者、平賀源内の俳諧の師である と共に、長崎留学などに力を貸し、陰になり、日向となってこの先覚者を育てた志度の豪商、「宇治屋渡辺」家の六代目である。
 宝暦11年(1761)郷士となり、志度の政所を勤め、早くから「甘泉庵芳室」の門に入り俳諧を学び、和歌・漢詩にもすぐれ、「花月斉珊楽」とも交わり、三千舎と号しその名を遠近に知られた。
 この塚の右側には、『置はちる物とおもひし露の身をさそうあらしの松の下かぜ』の歌が刻まれて 露塚といい、菩提寺である東林寺の門前にある。

 −−恵遠山放光院東林寺−− 
 高松藩祖松平頼重公は、寛文8年(1668)6月竹井蔡庵に命じて菩提寺として、香川郡百合(もまい)郷に法然寺を建てさせ、寛文10年正月26日三百石の寺領を寄進して、落慶法要を行なったが、そのとき頼重の下した「仏生山条目」の第23条に「国清寺・栄国寺・東林寺・真福寺の四か寺は、頼重中興にて建立せしむるの間、住持たるものは報恩のため各登山致し、法事相勤べし」云々と、この時既に当寺ら四か寺を法然寺の助勤の寺として、建立の計画を定めていた事を述べている。
 当時新寺を建立する事は、元和元年7月に幕府が下した、浄土宗本山への35か条の諸法度によって、「大小の新寺私に建立致すべからざる事」と禁じられていたので、頼重は其の頃廃寺と成っていた岡の御堂と呼ぶ寺を再興と言う事にして、暢蓮社演誉知廓上人を開祖として、延宝4年(1676)に恵遠山放光院東林寺と号し、法然寺の下寺とし寺領五十石を寄進し、建立させたのであった。
 創建当初の本堂・付属建物は、再三の火災や台風で、旧記などもすべてうしなっていた。本尊阿弥陀如来を安置した庫裡だけの状態から、檀家全員の協力で、境内整備の上、昭和59年3月31日本堂再建落慶法要を奉修した。 

 文はさぬき市文化財保護協会志度支部 現地案内板より転載しました。
 写真は2011年4月22日・23日撮影
 場所はワイワイマップにスポット投稿します。


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 東林寺
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 門扉の葵の紋
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 本堂
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 露塚方面
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ワイワイマップの見方
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乙井の六地蔵石幢

【乙井の六地蔵石幢】
 乙井の六地蔵石幢(おついのろくじぞうせきとう)は香川県さぬき市造田乙井鴨部川の北にあります。さぬき市指定有形文化財(建造物)
 地蔵菩薩は、弥勒菩薩が娑婆世界に現れて庶民を救済するまでの間、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)衆生を浄土へ導く役割を担う。そのために六つの分身を考えて六地蔵として信仰した。ここ乙井のものは、一つの石を六面体に刻んで、それぞれの面にほぼ同じ像形が彫刻されている。この石幢は室町時代様式であるが造った年代が刻まれてないので、正確には製作年代が分からない。材質は基礎から宝珠まで火山(ひやま)から採掘した凝灰岩(白粉石)である。長い年月の間に相当風化が進んでいる。
 六地蔵への信仰は、いずこに転生しょうとも浄土への導きを確かなものにするなど、多様な願いを聞き届けると信じられ、輪廻車のついた車地蔵を回したり、人が周囲を廻って念仏すると、安心・安全・長寿などの功徳が増すという信仰。石像を削って服用するとご利益があると信じるなど、実に多彩な民間信仰が長い年月にわたって展開されたものと考えられる。
 北は日内山・末より、志度寺・八栗寺へと通じる道、南は長尾、宝蔵院、石田橋より地蔵・小倉薬師道へ通じ、西は願興寺門前より宮西、白山、高松へと通じる交通の要衝である。
 上記記事は、現地案内板・WEBより転載しました。
 写真は、2010年6月11日撮影
 アクセス:高松からは。国道11号を志度へ志度から県道141号を造田方面へ鴨部川の橋の渡る手前に石灯籠がありそこを左折します。桃畑を過ぎると左側です。ワイワイマップに投稿します。

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ワイワイマップの見方
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【旧志度街道沿いの石灯籠】
 <><>用心堀と石灯籠
 高松藩松平家が、領内の百姓から取り立てる年貢米を収納するため、藩内各所に米蔵を建てた。その一つが此処にあって、面積5.5ヘクタールの敷地に9mに27.3mの蔵が三棟と、年貢米検査所、藩役人や蔵番の部屋があり、志度のお蔵と呼ばれ、毎年秋に1万5千俵の米が収納され非常に賑わった。
 志度町新町「平賀家」は、初代「喜左衛門良盛」が明暦3年(1657年)8月、お蔵番を命じられて以来、世襲してきた。
 平賀源内先生は父「茂左衛門良房」の死により後役となったが、宝暦4年(1754年)7月、学問を目指して退役したため、平賀家4代98年間のお蔵番に終わりをつげた。
 この石灯籠は寛永4年(1851年)津田村の大庄屋「上野氏」と志度村庄屋の「岡田氏」の両氏がお蔵の用心のため建てたものである。
 <><>石鎚山奉献灯籠(新町自然石灯籠)=さぬき市指定有形文化財
 自然石を使ったこのユニークな灯籠は、志度町間川、雲附山に祀られている石鎚神社の奉献と、志度の海辺から玉浦川の河口にかけて繋留する漁船のしるべの為、「もとや醤油」初代当主「小倉嘉平」が、石鎚神社の信仰に燃える実弟、高松藩士「田山助蔵」の勧めによって、弘化3年(1846年)に建立したものである。
 小倉嘉平を中心に始まった石鎚講は、間川を中心に今も続いている。
 <><>石鉄大権現灯籠=さぬき市指定有形文化財
 雲附山に祀られている石鎚神社への奉献の自然石灯籠
 写真は、2010年4月18日撮影
 
 用心堀石灯籠 
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 石鎚山奉献灯籠(新町自然石灯籠)
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 石鉄大権現灯籠=さぬき市指定有形文化財
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