金毘羅宮は、香川県仲多度郡琴平町の琴平山に鎮座し、主たる御祭神は、大物主神ともに崇徳天皇を祀っています。往古には、大物主神を祀り、琴平宮と称しました。中古になると本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)の影響を受け、金毘羅大権現と改称し、永万元年(1165)、相殿に崇徳天皇を合祀しました。明治元年(1868)に神仏混淆が廃止されて元の神社に復り、同年七月に宮号を仰せ出られて、金毘羅宮と改称し現在に至っています。 文は、讃岐の街道『金毘羅参詣道』より転載しました。 大門(旧二王門)
大門(旧二王門)これより内が境内で、二層の入母屋造の建物で、江戸時代の慶安二年(1650)に初代の高松 藩主であった松平讃岐守頼重が寄贈したものだそうです。有栖川宮熾仁親王筆の「琴平山」の額が掲げられる。 金毘羅参詣名所圖會では二王門 一の坂の上にあり金剛神の両尊と象頭山の額は竹内二品親王御筆。二王門を入ると櫻馬場、左右は石の玉垣数十間続きその内側は奉納の石灯籠、後ろには櫻並樹、右に眞光院・萬福院・尊勝院・神護院、左には桜並木の後ろに竹藪であったようです。 五人百姓 金刀比羅宮の境内は商売が禁止されているが、古くから神社に功績がある五人百姓と呼ばれる5家の商人の み営業を許されている。大門を入ると白い笠の下で売っているのが名物の加美代飴である。砂糖と水飴を煮詰めた手作りのべっこう飴で、ゆずの香りがほんのり漂う素朴な味がする。 桜の馬場・右側には松尾寺の境内末寺が建ち並んでいた。 こんぴら狗(いぬ) 江戸の昔「こんぴら参り」の袋を首に飼い主に代わって犬がこんぴらへ、首に巻いた袋に初穂料と道中の食費を入れて飼い主が旅の人に託した犬。無事代参をすませると再び旅をして家族のもとへ。 いつの頃からかこんぴら参りの此の犬を「こんぴら狗」と呼ぶようになりました。 この門の奥が表書院 表書院 重要文化財(建造物)承応3〜万治(1654〜1660) 昭和30年6月22日(1955)指定 構造及び形式等: 桁行21.7m、梁間16.9m、一重、入母屋造、正面軒唐破風付、檜皮葺 讃岐の藩主を始めとし、諸大名の中にも参詣する者が少なくなかった。また使者を代参させる者もあり、この表書院は、そのような時に使われた建物即ち客殿であった。この書院の建立は万治年間(1658〜60)といわれておる。正面の中央に唐破風をもった堂々たる建物である 四脚門 重要文化財(建造物) 承応3〜万治(1654〜1660) 昭和57年2月16日(1982)指定 構造及び形式等: 四脚門、切妻造、本瓦葺 表書院(重要文化財)の前方に建つ門で、表書院と一連の計画になるものと考えられる。形の整った、質の良い四脚門で、折上格天井や透彫彫刻など繊細な意匠に秀れている。 表書院の南前方(左側)に建つ門で、建立年代は明らかでないが、様式手法からみると、万治二年(1659)建立の表書院と同時期の建立と思われる。 文は国指定文化財等データベース&香川県立図書館蔵『町史 ことひら』&Wikipedia&琴平町UP&現地説明板などから転載しました。 写真は2012年1月24日撮影 場所はワイワイマップ(こんぴらゆかりの地map)にスポット投稿します。 |
金毘羅参詣道
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海の金毘羅参詣道と高松街道、丸亀街道、多度津街道、宇多津街道、阿波街道、伊予土佐街道の道標、灯籠、鳥居、地蔵などの書庫
門前町は有名な寺社の門前一帯に、まず社人たちの生活物資や神事などに使用される物資などを供給する地として形成される一方で、参詣者の食料や宿所を供給する地でもある。 江戸時代初期から金光院一族や浪人などが移住し、次第に形成され始めた。 文は香川県立図書館蔵書より転載しました。 写真は2012年1月24日撮影 門前町 内町 金稜 虎屋 この灯籠の手前から階段がはじまる。(右琴平公会堂・金丸座へ) 備前焼「狛犬」重要有形民俗文化財 昭和三十四年指定 灯明堂と釣灯籠 重要有形民俗文化財 昭和四十五年指定 青銅大燈籠 重要有形民俗文化財 昭和五十四年指定 鼓楼(時太鼓)及び清塚 金刀比羅本教総本部 大門前 大門 駕籠屋 ワイワイマップの見方
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=上覆ふ屋形の鞘におさまれる御代の刀のようなそりばし= 十返舎一九 上は一九が金毘羅道中膝栗毛の中に記した狂歌である。たしかに他所の例のない面白い構造である。琴平を貫流する潮川(金倉川)に架けられた十幾つもの橋の間に、この橋の景趣は古くから唱道されてきた。 橋廊複道(屋根のある橋)、湾曲した結構、世に浮橋ともいわれ、橋杭のない奇橋、まさに天下一品なのである。全国に例にとれば、宇佐の呉橋に似てはいるが構造はさほど相似してはいない。複道の彩虹(虹は一入の趣致を添えて古来多くの詩歌に詠まれ、画にもされている。) さて、もともとこの橋の創建は不明であるが、元禄年代既に熊谷立閑の詩にあるから、それ以前に始まったものと思われ、又 金刀比羅宮宝物屏風、大祭頭人之図「狩野休円清信」のものした中に、当時は橋柱があって、ここで参拝者が水流に浴び斎戒している図がある。鞘橋納涼も名高く、琴平市街の内町と新町とをつなぎ、明治以前は橋上に鮮魚、青果類の出し店、その他小道具等の店あって賑い、甘酒等の出し店もあったが、明治二年の改築に当り橋柱を用いない反り橋とし、屋根を銅葺きの三棟に改め、主として神事に用いる橋となった。元の位置は叙上の一之橋にあり、明治三十八年現在地に移転した。 判明するものからこの変遷記すと、 一、寛永元甲子年(1624)宥睨法印山麓造り後廊となす。(三百年以上前) 一、明和八年(1771)辛辰八月廿日洪水の為流失 一、安永四乙未年(1775)十一月高松住人豊原屋平右衛門、榎井村住人柏屋甚右衛門、願人と相成再造寄附募集の許可を得て専ら其の準備に着手す。 一、天明二丙寅年(1782)九月全く成功す。 一、慶応二丙寅年(1866)八月三日大雨にて同七日昼八ツ時(午後二時頃)洪水となり、同夜九ツ時(午後十二時頃)再び流失。 一、明治二己巳年(1872)二月六日起工。 一、明治二己巳年(1872)五月九日終功す。阿州橋講中(徳島県麻植郡の人達)寄進。 一、明治三十七年(1904)十一月南神苑の現在地に移転。 一、昭和三十二年(1957)修築。 となっている。 橋の規模 桁行 七十八尺(23.87m) 高 十三尺八寸(4.18m) 梁間 十五尺(4.55m) 家根 六十九坪八合 橋の構造形式 正面 唐破風造 上屋根 枝折破風三ツ斗造 銅葺 以上の文は香川県立図書館蔵書より転載しました。 写真は2009年12月17日・2012年1月24日撮影 場所はワイワイマップ(こんぴらさん所縁の地map)にスポット投稿します。 ワイワイマップの見方
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金毘羅参詣道は榎井・新町からの高松街道と富士見町・栄町からの丸亀街道が新町で合流しそして鞘橋の手前では阿波町からの阿波街道と合流。 鞘橋(明治三十八年御神事場北端へ移転ご一之橋が架けられた)の下の金倉川に降りて参拝人は埃をとって御山にへ登って行きました。 鞘橋を渡ると内町で右から高藪町口の多度津・善通寺街道と合流。左には金山町。内町・坂町には大門までの間に御土産店・旅館が建ち並んでいました。内町・坂町では牛屋口より伊予街道に出る。 鞘橋が明治三十八年御神事場北端へ移転した跡に一之橋が架けられた。現在の橋は明治の面影は無い。平成になって近代的な橋に架けかられ同時に一之橋公園も造られた。 (鞘橋は次回に記事にします。) 文は香川県立図書館蔵書などから参照しました。 写真は2012年1月24日撮影 場所はワイワイマップ(こんぴらさん所縁map)にスポット投稿します。 新町の古い商店 阿波町口 一之橋 一之橋から上流 一之橋から下流 一之橋公園 この階段から表参道 ワイワイマップの見方
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御神事場から阿波町、そして明治中頃までは片原町と呼ばれていた金沢町。流石に阿波からの道とあって、この道筋には、山の人達に関係がある商店が他の一般の商店と共に多く軒を並べていた。のこぎり屋・やすり屋・鍛冶屋・やり屋などであった。この街道も昭和十年(1935)の鉄道の開通と共に寂れていった。 金倉川に沿って新町に入りここで高松街道・丸亀街道と合流する。鞘橋(移転・現一之橋)の下の金倉川で身を清め内町を通って参拝した。 文は香川県立図書館蔵書などより参照しました。 写真は2012年1月24日撮影 場所はワイワイマップ(金毘羅参詣道map)にスポット投稿します。 買田方面から 御神事場前 御神事場 移転された鞘橋(後日記事にします。) 鞘橋跡の一之橋(後日記事にします。) ワイワイマップの見方
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