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香川県と近県を旅しときの風景・四季を記録したブログ。 古い讃岐も

風物詩・祭り・伝説

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生子山(ううこやま)の山姥
住 所:香川県綾歌郡綾川町畑田
所在地 マピオンマップ↓↓↓↓
解説等
 生子山という名は、山姥が子を産んだ山の意であると、世間に受け止められているようだ。又ある人は、大金持ちであった富豪家が、釈迦堂の石を採石するとき、石工がいたずらに足跡のような穴をノミで彫ったのであろうとっもいわれている。その後、一時土砂に埋まっていた大岩を掘り出したそうだ。その大岩が山姥の足跡の岩である。
 生子山 120.9m

伝 説
 生子山の山姥伝説 さぬきの伝説③ 山の巻 北条令子著
 生子山、ううこやまと呼んでいます。この山には、山姥が住んでいました。もちろん、むかしのことです。かつては、木々が茂りあっていました。山姥にとって住みごこち満点だったのでしょう。
 生子山の北側、ふもとの竹やぶのなかに、おおきな黒岩があります。土に埋もれてはいますが、畳二畳敷ほどの大岩です。不思議なことに、岩の真ん中にくぼみがあります。
 さてさて、ある年の春のことです。この年は特別あたたかい春でした。冬将軍も早々と立ち去って、桃の花が咲き始めています。「おーい、お産が始まったぞー」「早く、産湯の用意をしなくちゃ…」山の住人たちは、大騒ぎ。「おぎゃー、おぎゃー」「あっ、生まれたか。男の子か、女の子か」「どっちでもええ。お湯は、沸いたか」
 さてあて、山姥の赤ちゃんは、産湯をつかうことになったのですが、盥(たらい)がありません。盥がないまま、大岩のくぼみにお湯を入れて、ぱちゃぱちゃ。山姥の赤ちゃんは健康優良児、元気に手足を伸ばしていたことでしょう。
 このとき付いたのでしょうか、岩の縁に足跡が残っています。山姥の足跡なのでしょうが、人間の足跡のようにも見えます。でも、地元の人々は「山姥の足跡」と呼んでいます。
 山姥は、可愛い赤ちゃんを大事にそだてます。お乳は、たっぷりの母乳です。あたたかい春日を浴びて、母さんも赤ちゃんも幸せでした。
 赤ちゃんの、お父さんはだれだったのでしょうか。山姥の、旦那さんの顔を見た人はいませんでした。まさか、未婚の母ではなかたでしょうね。ご主人は、山爺だという人もいます。山の神様と山姥が結婚して、生まれたのが赤ちゃんだとも言います。
「もう、山姥の赤ちゃんも大きくなっただろうな…」「ああ、もう、ええ娘さんだ…」「そろそろ、山の神さまと結婚するのかなー」でも、近ごろどうしたことか、山姥のうわさ話を聞かなくなっていました。それに、生子山の形もそうとう変わってしまいました。
撮影日:2017年2月8日
近隣施設:滝宮天満宮、滝宮公園、

ここから左に登っていく
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鐘楼
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親鸞像
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神武天皇社
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二十四輩
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釈迦堂 釈迦如来像
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山姥の足跡
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阿波霊神 竜王社
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戦没者慰霊碑 軍人墓地イメージ 19

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福比(ふくび)社/民話

福比(ふくび)社 
香川県観音寺市本大町
 本大町の松本は、昔から伊予街道の交通上たいせつな所であった。ある日、御殿様が領内を巡視されていて、この松本を通り過ぎようとされた。その時、殿さまのお乗りになっていた馬が、突然なにものかに驚いて立ち止まり、一歩も前に進まなくなった。色々と苦心してみたが、最後には前脚を曲げてしまって立とうともしなくなった。
 お殿さまもほとほと困り果てて考えこんでいたが、ふと近くの道路沿いに小さな祠が祀られているのを見つけた。この祠は、福比社といって、昔は相当広い社領もあり、ご宝物や記録も本山寺に保管されていたが、長宗我部軍の兵火にかかり、すっかりなくなってしまいさびれてしまったという。お殿さまは、これは神さまのおしめしであろうと、すぐさま祠の前にひざまづき、丁寧に礼拝して道中の安全を祈った。すると乗馬は、たちまち平静を取り戻し立上がり前進するようになった。それ以来、お殿さまがここをご通過の際は、必ず馬から降りられて、福比社を礼拝するようにとのことである。
 この社の西北に神馬を埋めた塚があった。明治の末にこの塚を開墾して田にした者があった。近所の人たちは、神の祟りがなければよいがと恐れていたが、案の定祟りがあったのかその人は死に、その家族も続いて死亡し遂にその家は絶えてしまった。
 大正十三年、五柱神社の合社しようとしたが、霊験あらたかなこの神社は、他に遷ることを好まないので、ながくそのままになっていたが、昭和三十四年有志により社殿が再建された。
資 料:香川県立図書館蔵観音寺市誌観音寺の民話より転載しました。
撮影日:2014年11月12日

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詳しい地図で見る

お杖の井戸

お杖の井戸 香川県善通寺市中村町
 むかしむかし、空海(後の弘法大師)さんが四国を旅をしょった時や、善通寺の近くの筆岡(現在の善通寺市中村町)いうところのお不動さんの近くで、井戸の水がが濁ってしもうて困っとったんやと、ここに一人のおじゅっさんが通りかかったんやと、村の人の話を聞いたおじゅっさんは、「わかった。きれいな水を出してやろう。」というて、持っていた杖で地面をトントンと叩いてな、お経を読みはじたんやと、村の人は「なにしょんやろ、そんなことでは、なんちゃにならん、はがいましい(じれったい)なあ。」と思うたんや、ほしたらなんと、ちょびっとずつ泥の中から水が湧いて出てきて、そのうちけっこい(綺麗な)水が、みよるまに湧いてきたんやと。これには村の人もおおけてそもうて(驚いて)わあわあゆたの。そんで気がついたら、おじゅっさんの姿は無しんなっとった。
 「ありゃあ、お大師さまじゃあ。」とみんながいいはじめて、その井戸は「お大師さんのおつえの井戸」とゆわれるようになったんやと。
 記事は、現地説明板より転載しました。
撮影日:2014年9月3日
近隣施設:善通寺、甲山寺、出釈迦寺、曼荼羅寺、乃木館(旧陸軍第11師団司令部)、旧善通寺偕行社 すべて無料で見学できます。

マピオンマップ↓
https://www.mapion.co.jp/m2/34.242863028095705,133.764880280948,19
マップコード↓↓↓↓↓
77 557 663*83

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井戸
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不動堂
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仁尾八朔人形まつり

仁尾八朔人形まつり 香川県三豊市仁尾町町内
 第16回仁尾八朔人形まつりが、2013年9月21日(土)・22日(日)・23日(月)に行われました。平成15年には「ふるさとイベント大賞」大賞を受賞。民家、工業倉庫、人形店、お寺などの会場を回ります。中でも人気があったのは、香川高専詫間キャンパスの生徒さんの作品の映像及び動く作品。塩田家住宅の休憩場としての開放。昔の栄華が忍ばれるところでした。(後日記事のします。)
仁尾八朔人形まつりの歴史
 仁尾町の歴史は古く、集落の形成は平安時代に始まったといわれています。戦国時代になって細川土佐守頼弘公が仁尾城を築き、その頃から町は急速に発展していきました。しかし430年前の天正7年3月3日に、長宗我部元親の侵攻を受けた仁尾城は落城。頼弘公は自害します。この日から仁尾では、城主の命日となった3月3日には祝い事であるひなまつりを行わず、八朔の日(旧暦の8月1日)に男子と女子の節句を一緒に祝うようになったそうです。
 特に初めて男子が誕生すると、部屋の一角に舞台を作り石・砂・苔・松などを使って山川渓谷のミニチュアを作り、武者人形を配置して歴史上の有名人やおとぎ話の場面を再現し、元気に成長することを願うようになりました。この独特の風習がいつどのようにして始まったかはっきりとは分かりませんが、仁尾町本町には伝統的な人形作りの店が数件あり、このお店の存在が大きな影響を与えたことは間違いないようです。初節句を迎えた家々では、それぞれ趣向を凝らして芸術ともいっても過言でない人形の飾りつけをしたため、見物人が多く訪れて町内は大いに賑わっていました。 この風習は戦後も続いていましたが、次第に廃れて30年前頃には全く見られなくなってしまいました、この珍しい風習を甦らせて町ぐるみのお祭りにしたのが、平成10年から始まった「仁尾八朔人形まつり」です。
八朔だんご馬
 米の粉で作っただんごを、木の骨組みにつけて馬の形をかたどったのが八朔だんご馬。こちらも人形と同じく、男の子の無事な成長を願って作られるものです。一説には、保元の乱に敗れて讃岐に流された崇徳上皇をお慰めしようと、この馬を作って献上したのが始まりとも、丸亀藩の家臣で乗馬の名人だった間垣平九郎にあやかったともいわれています。そのためかこの風習は、丸亀藩にゆかりの深い西讃を中心に残っています。
上記の文は、SANKAN Navi「仁尾八朔人形まつり」より転載しました。
http://www.sankankouiki.jp/event/pickup/report_vol11/chishiki.php
 
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三豊市特産張り子の虎木型 市松人形も特産品
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浦島太郎と乙姫(詫間伝説)
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【田野々雨乞い踊り】
 田野々雨乞い踊り(秋の発表会) 香川県観音寺市大野原町田野々
 ==由来
 田野々(たのの)地区は大野原町南西部(旧豊田郡五郷村)に位置し、周りを山に囲まれた細長い盆地である。山村だが農地は比較的広く、稲作が盛んであった。しかし、山が浅いので少しの日照りでも直ぐに旱魃に見舞われていた。
 慶長の頃、薩摩法師が観音寺市豊浜町和田(旧和田村)に来て、近郷近在の農民が旱魃に苦しむのを見て、雨乞い歌を作り、踊を教え、農民の苦しみを救われた。これが和田雨乞い踊りである。田野々雨乞い踊りもこの時薩摩法師によって教えられた踊りと考えられる。それは和田雨乞い踊りの歌詞の中の四季、屋形、薩摩、目出度は、田野の々雨乞いの歌詞の中にもあり、そのうえ和田遺構墓地には、薩摩法師の墓と宝篋印塔があり、それに両浜、和田、田野々世話人と刻み込まれていることから推察される。
 ==祈雨行事
踊りは、編笠のけいご(歌い手)を中心に、浴衣に白襷、手甲、脚絆姿に締太鼓をかけた太鼓打(10数名)が輪を作り、その外に浴衣姿に団扇の踊りの輪(20〜30名)、そしてその外に花笠を付けた子供たちの輪を作って雨乞い歌に合わせて踊っていた。
 雨を祈る時には、まず前もって高尾山(496m)の竜王社へご立願に行く。当日は夜半に起きし、太鼓を合図にそれぞれのいでたちで鎌倉神社に集合(笠揃い)、準備を整え午前2時神社を出発して高尾山竜王社へ向かう。山上では法泉寺住職の祈雨の読踊、踊りを2庭踊って朝食をとり、また1庭踊って下山、途中新山の神、むねんどう、釈迦堂、地神さんで踊って昼食、そしてお旅所、学校、金光さんで1庭ずつ、法泉寺では2庭、最後に鎌倉神社で1庭踊って、踊り納めて、祈雨行事は終了する。
 ==田野々雨乞い踊保存会
江戸時代の慶長の頃この地にやってきた薩摩法師が雨乞い踊を伝授して400年。昭和九年の旱魃の時、雨を祈って踊りを奉納したのを最後に日中事変から時局が緊迫すれにつき自然に中止されてしまった。昭和四十六年正月から昭和四十七年七月まで先人の残してくれた文化遺産が消滅してしまうと完全伝承復活が地区民全員で始まった。

 2012年9月9日の秋の「田野々雨乞い踊」は田野々金刀比羅神社前広場で午後2時30分に始まった。
 歌い手を中心に幟が3本太鼓打ちと踊り手が輪になって静かなテンポで踊り続けること約二十分。終わった時アンコールの声が掛かるが、再度踊る体力気力なく終了。

 香川県指定無形民俗文化財(昭和五十三年十二月二十六日) 主催田野々雨乞い踊り保存会
 文は田野々雨乞い踊 大野原町教育委員会(現観音寺市)発行パンフレットより転載&香川県HPなどから資料参照
 写真は2012年9月9日撮影
 場所はワイワイマップ『歴史的縁の地、文化財、資料館などのMAP』にスポット投稿します。

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