==水見やぐら== 近世以来、矢掛は山陽道の宿場町として、また「小田川」を往来する高瀬舟の川港としても栄え、陸と川の交通の要衝、物資の集散地となりました。 街道筋に発達した矢掛の町家は低地にある為、本陣・石井家の裏門には「水楼」が、大庄屋・福武家には「物観(ものみ)」が設けられ、明治以降も水害を防ぐために苦心をはらってきました。 こうした幾多の先人の苦労を偲ぶため、昭和51年の大水害の教訓を生かし、美術館のシンボルとしてこの望楼を建設し、伝統ある「水楼」と「物観」に因み「水見やぐら」と命ました。 この水見やぐらは、矢掛産赤松材の大断面集成材による33cm角の通し柱4本で支えた高さ16mの4階建てで、木材建設として新設定の建築基準により特別に認可をうけたモデル木造建築です。 ==やかげ郷土美術館== 館内には町出身の書家・田中塊堂と洋画家・佐藤一章の作品を中心に郷土資料等を展示しています。 また、ギャラリーでは創作・文化活動の拠点としてロビーではポケット水族館の空間も生まれ、地域の人々の憩いの場を提供しています。 矢掛の散策での駐車場としても利用できます。矢掛本陣は直ぐ近くです。 文は、矢掛町HP&現地案内説明板より転載しました。
0866-82-2110 写真は、2011年9月6日撮影 場所は、ワイワイマップにスポット投稿します。 水見やぐら 本陣へのアプローチ 館内:水槽=近在の水生動物を展示しています。 参勤交代の様子 水見やぐらからの甍 ワイワイマップの見方 yahooトップページ→地図→ワイワイマップ→「資料館」検索→《歴史的縁の地、文化財、資料館などのMAP》を スクロールで選定する。 |
岡山県
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矢掛が山陽道の宿場としてその名をみせるのは、室町時代になってからです。今川貞世が九州探題に任命されて、九州に赴任する際に記した「道ゆきふり」の中に「屋蔭」という里で一夜の宿をとったと記されている。一説によれば、貞世が宿泊した「屋蔭」は江戸時代の矢掛宿とは異なり、茶臼山西麓の「古市」だったと言われている。 その後、江戸時代初期に諸大名の参勤交代が制度化されると、矢掛においても当時の領主によって古市から現在の場所へ人家を移転し、宿場としての整備が行われたと伝えられています。 元禄二年(1689)に作成された「矢掛町地子御免間数并絵図=石井家文書」によると、矢掛は山陽道に沿って東西約800mの町並みを形成しており、北側に95軒、南側に102軒の地子(宅地税)を免除された屋敷がありました。屋敷は“うなぎの寝床”と呼ばれる短冊形の地割りで、基本的には、大きな変化はなく、今日に至っています。 本陣や脇本陣をはじめ江戸時代の旧姿をとどめてた町並みは、「岡山県町並保存地区」に選定されています。 文は、現地案内説明板より転載しました。 写真は、2011年9月6日撮影 場所は、ワイワイマップ『古い街並み風景map』にスポット投稿します。 ワイワイマップの見方 yahooトップページ→地図→ワイワイマップ→「宿場」検索→《歴史的縁の地、文化財、資料館などのMAP》を スクロールで選定する。 |
松山城(まつやまじょう)は岡山県高梁市内山下「小松山の山頂」にあった連郭式山城である。別名、高梁城(たかはしじょう)とも云う。 秋葉重信が延応2年(7月16日改元)・仁治元年(1240)に築いた。複合式望楼型2重2階の天守閣を持ち改築を繰り返し現在に至っています。 江戸期の備中松山藩時代は山城で不便なため、山麓に御根小屋という御殿を構え、そこで藩主の起居・藩の政務を行った。天守までは1500m程の道のりで比高差370mの山道を登る。 城跡は国の史跡 昭和31年(1956)11月7日指定。日本一高い所にある山城(海抜約430mの臥牛山小松山=がぎゅうざんこまつやま)の山頂に建っています。天守・櫓・土塀、が(昭和16年5月8日(1950))国指定重要文化財(建造物)に指定されています。 日本三大山城・日本100名城。にも選定されています。 アクセス:鞴(ふいご)峠駐車場までは、来るまで行けますが、駐車場からは、地道・階段などを徒歩で約700m(20〜25分)で本丸南御門(料金所)に到着です。(300円) 文は、Wikipedia&現地案内板などから転載しました。 写真は、2011年9月6日撮影 場所は、ワイワイマップにスポット投稿します。 上太鼓櫓跡
大手門・足軽箱番所跡 三の平櫓東土塀(重文) 二の櫓門跡 二の丸跡より天守(重文) 本丸南御門(復元)料金所 本丸跡より天守 岩盤に建つ天守 本丸跡と南御門と東御門=復元(左) 二重櫓(重文) 天守内・滑り止めの付いた階段 天守内・囲炉裏が切られている。(食事を造る為・暖をとる為) 搦手門跡付近 ワイワイマップの見方 yahooトップページ→地図→ワイワイマップ→「城」検索→《城・城址のMAP》を スクロールで選定する。 |
北岸は天然の良港で、元禄時代(1690年代)、岡山池田藩によって西国大名の参勤交代などの風待ち港として筑港がなされ、在番所・御用家・加子番所などが置かれた。また、岡山藩が町人長屋を建て、移住者に無償提供したことから開拓が進められ、内海航路の要地として発展した。 南岸は奇岩が多く、日生諸島有数の景勝地となっており、海岸沿いには島を一周できる自然研究路が設けられ、起伏に富んだコースはハイキングに最適。 また、夏には海水浴場などへのレジャー客でにぎわう。 史跡としても、灯籠堂(とうろうどう)、六角井戸(ろっかくいど)、元禄防波堤(げんろくぼうはてい)などがあり、見所が多い。 面積:0.40km2 周囲:5.0km 標高:41m 人口:118人(平成22年3月31日現在) 文は、岡山県ホームページなどから参照しました。 アクセス:日生港から島々を巡りながら行く連絡船が出ています。 写真は2011年2月21日撮影 場所はワイワイマップにスポット投稿します。 大多府島 大多府港内 夫婦岩 石積み防波堤 港内 牡蠣の荷揚げ場 牡蠣の加工場 ワイワイマップの見方
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文は全て現地説明板より転載しました。 写真は2011年1月3日撮影 場所はワイワイマップにスポット投稿します。 <>下津井町並み保存地区 岡山県の町並み保存地区昭和61年指定 下津井は瀬戸内海に面する歴史の古い港町で、奈良・平安時代の記録にも記されています。江戸時代の初めには備前藩の出城として、背後の山にあった小城を改修して下津井城が築かれました。その後、この城は一国一城令で廃城となりましたが、往時を物語る石塁等は今も残っており、岡山県指定史跡となっています。 下津井が本格的な港町として栄えたのは江戸時代中期以降からで、北前船や御座船等で大いに賑わいました。また、四国への渡海港としても金毘羅参りの人々等でも賑わいました。 今でも当時の商家やニシン蔵跡などが残され、漁師町の雰囲気もよく残っています。これらの建物は、本瓦葺で漆喰壁や海鼠壁とし、窓には虫籠窓や格子戸を備えており、歴史的な景観をとどめています。 <>下津井の共同井戸 下津井の町並みにはいくつもの井戸が点在し、中には複数の家で使用する共同井戸も見られます。杓井戸、寺井戸、鶴井戸、亀井戸がそれです。 これらの共同井戸では井戸ごとに使う家が決まっており、その管理も使用する家々が厳しく行っていました。これらの井戸は江戸時代以後、下津井に暮らす人々の飲料水の供給源でした。また、港へ寄港する船に供給されたり酒造りにも使用されたりしました。 人々の生活を長い間にわたって支えてきたこの共同井戸群は、かつての下津井の繁栄を今に伝える記念碑ということができる。昭和45年3月20日倉敷市指定史跡 <>道標(道しるべ) もと下津井一丁目八−二東角にあった 『三十三番→大し(大師)道』(もと東の面)は吹上観音寺からの遍路巡拝者に右折れ(北進)すると児島霊場第三十三番札所の平松庵がある事をを知らせている。 『ゆか(瑜伽)岡山道』(もと西の面)は下津井湊に上陸した渡海客に、この道(旧道。町並みを東西につらぬく一筋の道)を東に進むと、瑜伽道(瑜伽権現への道)・岡山道(岡山へ向かう道。岡山・下津井間は四国街道あるいは金毘羅街道とよばれた)であるという事を知らせている。 また、もう一つの面に『町内安全』とあり、町の人々の善根(他人への温かい慈善の行い)による建立が明らかとなる。 <>まだかな橋欄干の親柱 下津井湊には、江戸期から北海道の特産物を満載した北前船や諸国の物産を積んだ船などが数多く寄港していた。 陽も沈み町の行燈に赤い燈がともると、中波止の橋のたもとから船頭や船乗りたちに、『まだ(遊郭にあがらん)かな』と声をかける婆がいた。いつともなく橋は「まだかな橋」と呼ばれるようになった。 この親柱は、湾岸道路建設のさいに下津井港が埋め立てられるまで橋の欄干に用いられていたものである。
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