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城 名:鬼ノ城(きのじょう)
住 所:岡山県総社市奥坂
城 郭:古代山城
天 守:
築城主:大和朝廷(推定)
築城年:七世紀後半頃(推定)
廃 城:不明
文化財:史跡指定=昭和六十一年三月二十五日、百名城、
鬼ノ城の由来
後世の文献である鬼ノ城縁起などによると「異国の鬼神が吉備国にやって来た。彼は百済の王子で名を温羅(うら)という。彼はやがて備中国の新山(にいやま)に居城を構え、しばしば西国から都へ送る物資を奪ったり、婦女子を掠奪したので、人々は恐れおののいて「鬼ノ城」と呼び、都へ行ってその暴状を訴えた・・・」。これが、一般に温羅伝承と呼ばれる説話で、地名もこれに由来している。
(吉備津彦命の温羅退治の伝説=桃太郎伝説?)
H P:岡山県古代吉備文化財センター http://www.pref.okayama.jp/kyoiku/kodai/kinojou-top.html
マピオンマップ↓↓↓↓
資料等:現地説明板&Wikipedia&おかやま旅ネットWEBなど
写真は2016年5月18日撮影
近隣施設:高松城趾、最上稲荷、宝福寺、
発掘調査時の写真
版築土塀
復元時の写真 復元時の写真
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岡山県
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半田山植物園
住 所:岡山市北区法界院
電 話:086-252-4183
運営会社:(公財)岡山市公園協会
開 園・沿 革:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E5%B1%B1%E5%B8%82%E5%8D%8A%E7%94%B0%E5%B1%B1%E6%A4%8D%E7%89%A9%E5%9C%92
入 園:有料 駐車場:有料
案 内: 岡山市半田山植物園は岡山市街を一望出来る日当たりのよい半田山の丘陵地を、植物観賞はもとより、レクリエーション、憩いの場として、広く市民のみなさんに利用していただこうと、昭和39年5月に開園しました。
11万㎡の園内には3200種、15万本の植物が植えられており四季を通じて咲くように企画されています。
また頂上付近には貴重な文化財でもある一本松古墳(前方後円墳2箇所、埋め戻されています。)、中腹には明治時代に作られた配水池(見学外観のみ)などもあります。
最適シーズン春初夏(桜・つつじ(さつき)・牡丹など)
撮影日:2015年10月8日 配水池
展望所
古墳
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古墳名:牟佐大塚古墳
住 所:岡山県岡山市北区牟佐
形 式:円墳横穴式
規 模:墳径約30m 高さ約8.5m (復元すると一回り大きいと考えられる)
石 室:奥行6m 幅2.8m 高さ3.2m
羨 道:両袖 長さ約12m 幅1.8〜2.4m奥に向かって広くなっている。 高さ2.1m
築造期:6世紀末の古墳時代後期
史跡指定:国指定史跡 昭和5年2月28日(1930)
解 説
この古墳は、赤磐市と岡山平野、美作とつなぐ交通の要衝に築造されているため、当地域の交通権を掌握し、広範な政治的まとまりを確立した有力者(国造層)の葬られている墓と考えられます。
玄室には長さ2.88m 幅1.6m 高さ1.5mの刳抜式家型石棺がある。石棺は貝殻石灰岩製で岡山県井原市浪形山で産出されたものである。石棺には盗掘のため小口の穴が開いている。
箭田大塚古墳・こうもり塚古墳と並んで、岡山県下三大巨石墳の一つに数えられている。
何時でも見学できますが、駐車場はありません。
資料等:現地説明板、ウィキペディア、
撮影日:2015年10月8日 棺の中
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旧 広兼邸
岡山県高梁市成羽町中野2710
文化財指定:歴史的建造物
建築年代:文化10年(1813)
用途区分:庄屋住宅(入母屋造り瓦葺)
残存建物:主屋・土蔵3棟・楼門・長屋
公開状況:公開(外からの見学)
解説等
江戸時代後期の裕福な庄屋の邸宅として構えをよく伝えます。このため、昭和59年11月に成羽町(現高梁市)の重要文化財に指定されました。この邸宅は、昭和60年2月に、前所有者の広兼氏から岡山県が寄付を受け、その後、この文化的遺産の保護を図るとともに地域文化の振興に役立てため、岡山県と岡山県郷土文化財団が協力して修復したものです。
昭和60年8月 岡山県と岡山県郷土文化財団
大野呂の庄屋を務めていた広兼家は、享和文化の頃(1801〜1817)二代目元治が小泉鉱山を経営し、合わせて弁柄の製造により、財産をなして、今みられるお城のような邸宅を建てました。この武者返しのような石垣は、現在約半分が土に覆われていますが、石積みの見事さは他に類を見ないほどです。向かいの山には、明治初期、天広神社が建てられ、広兼個人の神社として祀られていた。境内には、社務所、石灯篭数基、狛犬もあり、花木を植えられ池・築山つくられ衆楽園と称する大きな庭園があり、当時の豪奢な生活を忍ばせています。
大正時代には、離れが建築され、お茶室・化粧部屋・客間・風呂等が備えたお座敷で、当主の結婚式に一度使用しただけで以後は使用されてない。
映画「八つ墓村」のロケが昭和52年と平成8年の二度にわたり行われ、全国に放映された。
資料等:現地説明板、高梁市観光協会冊子など
撮影日:2015年6月9日 |
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吉岡(吹屋)銅山 笹畝坑道
住 所:岡山県高梁市成羽町
電 話:0866-29-2222 (高梁市成羽町観光協会吹屋支部)
運営会社:
あらまし
吉岡(吹屋)銅山は、大同二年(807)に発見されたと伝えられ、古書に備中の産物に関する記載があるが、吹屋の銅山としての記録は、戦国時代尼子氏と毛利氏の争奪戦以来、江戸時代初期一時、成羽藩の支配下にあったが、大部分の間は、天領幕府直轄地で代官の支配下で稼いでいた。長い歴史のなかで繁栄期は、次の三期であった。
元禄年間(1690頃) 経営者・泉屋(住友)継続年数=35年。享保〜天保年間(1716〜1842) 経営者・福岡屋(大塚)継続年数=2回で107年。明治〜昭和年間(1873〜1930) 経営者・三菱(岩崎)継続年間=57年。
江戸時代の採掘は手掘りで、鉱区も小範囲であったが、坑内の排水が非常に困難であり水抜き坑道を掘り抜いた時期が繁栄した。
明治以後三菱金属株式会社の経営になり、附近の小山を吸収合併し、自家発電所を設け、削岩機を使い精錬等の作業を機械化し日本で初めて洋式溶鉱炉を造り、日本三大鉱山の一つとなった。この鉱山は笹畝と称し支山であったが、後年は地下で本坑道(坂本)と連絡している。
ここでは、黄銅鉱、磁硫鉄鉱(硫化鉄鉱)が産出された。特に江戸時代にはこの地から馬の背に乗せて成羽町下原の総門まで運ばれ、高瀬舟で玉島港まで行き、海路を利用し大坂の銅役所へ運ばれた。
文化財等:近代化産業遺産
資料等:高梁市観光協会冊子など
撮影日:2015年6月9日
露頭(ろとう)
𨫤石(ひせき)域は、鉱石が地表に露出しているところを路頭といい、鉱床を発見する場合の手掛かりとなる。笹畝鉱山もこの場所が発見され、上抗道沿いに掘り進んでいる。 |




