国指定史跡指定(朝鮮通信使遺跡牛窓本蓮寺境内)平成六年十月十一日指定 本蓮寺は、江戸時代に日本国と朝鮮国の善隣友好の使者として十二回渡日した朝鮮通信使の中心的な役割を担う三使(正使・副使・従事官)の宿館として四回利用された。三使の宿館が御茶屋に変更された後も朝鮮通信使が寄港する度に接待する岡山藩の中心的な施設として利用された寺である。 当時の寺の様子が朝鮮通信使一行の記録や書軸などに記されており、当時と同じ情景を今も思い浮かべることができる大切な場所である。 なお、しおまち唐琴通りにある朝鮮通信使ゆかりの井戸と一括で指定されている。 文は現地説明板&瀬戸内市教育委員会文化財HPより転載しました。 写真は2011年11月14日撮影 場所はワイワイマップ『寺院・お堂map』にスポット投稿します。 山門(市指定重要文化財:建造物) 創建の年代は不詳ですが、現在の建物は18世紀中頃のものとされています。形態は一間一戸の四脚門と呼ばれるものです。屋根は切妻造、本瓦葺、軒は二軒繁棰、拝みに鰭付蕪懸魚を吊ります。構造は2本の本柱を大形の冠木で固め、本柱と控柱を頭貫で固定し、その上に斗栱を組んで梁を支持しています。 中門(国指定重要文化財:建造物 昭和四十五年六月十七日指定) 本堂と同じ明応元年(1492)頃の再建と伝えられています。2本の柱を主柱とする棟門と呼ばれる形式のものです。構造は切妻造、本瓦葺、破風には鰭付蕪懸魚を吊り、軒は疎 になっています。扉は建立時のものは残っておらず、昭和51年(1976)の修理の際に、本堂の桟唐戸を模して作成したものです。 本堂(国指定重要文化財:建造物 昭和四十七年六月二十六日指定) 棟木の墨書銘から現在の建物は本蓮寺の檀那であった石原氏の助力を受け、明応元年(1492)に再建されたものとわかります。平面は正面五間、側面五間、正面中央一間に向拝をつけています。構造は寄棟造、本瓦葺、斗栱はなく、円柱の上に大斗栱、舟肘木を置いて丸桁を支えています。軒は二軒繁 、化粧小舞軒となっています。 祖師堂(県指定重要文化財:建造物 昭和五十七年四月九日指定) 創建の年代は不詳ですが、再建の時期については元禄4年(1691)と明和6年(1769)の二説があります。平面は正面三間、側面四間、正面の中央一間に向拝をつけています。屋根は入母屋造、本瓦葺、拝みに鰭付蕪懸魚を吊ります。軒は二軒繁棰 、組物は支輪をもった出組です。 鬼子母神堂 番神堂(国指定重要文化財:建造物 昭和三十三年五月十四日指定) 法華経を守護する三十番神を祀った神堂で、覆屋の中に、東より東祠、中祠、西祠の3棟の建物が並んでいます。建築年代は建立銘より西祠は明応9年(1500)、他も室町時代後期とされています。中祠は一間社で、入母屋造、柿葺、向拝付、軒は二軒繁となっています。東祠と西祠は一間社で、流造、柿葺、軒は一軒繁となっています。 三重塔(県指定重要文化財:建造物 昭和五十五年四月八日指定) 年代は棟札の写しにより元禄3年(1690)の創建とわかります。平面は方三間、棟高は12.6mです。構造は四天柱をもち、心柱を初重の天井裏より立てた一般的なものです。屋根は本瓦葺、軒は各重とも二軒繁棰、組物は各重で変化しています。軸部は粽付の円柱で台輪を使用し、斗栱、花頭窓などは禅宗様です。 鐘楼 海遊文化館よりの本蓮寺三重塔 |
岡山県
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勝山町並み保存地区は岡山県真庭市勝山(旧勝山町)の美作国真島郡の高田城は領主三浦氏の城下町として明治維新を迎えた。
古くは出雲街道の要衝として繁栄を遂げる城下宿場町勝山。土蔵はもちろん、白壁や格子窓の古い町並みが残るとから、昭和六十年に岡山県発となる「町並み保存地区」に指定。各建物の軒先にオリジナルの暖簾が掲げられることから「のれんのある風景」としても有名で、ノスタルジックな趣が町全体を包みこんでいます。 <><>のれんのある風景<><>
「ひのき草木染織工房」の店主が、何か町に特徴をということで自らの店の軒先に暖簾をかけたことをきっかけに、商店、工房といったお店だけでなく、一般の民家までもその姿勢に賛同。「うちもやってみようか」とその輪が広まり、今では100軒もの家々でその店・家を象徴するセンスある暖簾が、まるで「生」の証しであるかのように日々元気に掲げられているのです。
文は真庭市観光協会HP&Wikipediaなどから転載しました。もう一つ素晴らしいのが、この暖簾をかけるという行動がすべて自主性であり、当然のことながら個人負担による制作であるということ。 写真は2012年9月26日撮影 場所はワイワイマップ『古い街並み風景map』にスポット投稿します。 <><>郷宿<><> 三浦藩定宿の郷宿として近郷の村役人が公用などで城下に出た際、宿泊していた藩指定の宿でした。 所有者高田家から市(旧勝山町)へ寄贈を受け、修復したものです。 鍛冶屋跡 |
住所 岡山県真庭市神庭 川名 旭川水系神庭川 山の名前 星山(標高1030m) 標高 不明 滝の落差 約110m幅約20m 神庭(かんば)の滝は「神庭の滝自然公園」にあります。国の名勝に指定されており(指定名称は「神庭瀑」=昭和5年7月8日指定)、日本百景、日本の滝百選 「神庭の滝自然公園」は、“日本の滝百選”に選ばれる「神庭の滝」は、切立った懸崖が周囲を取り囲む約百ヘクタールの地域です。 滝は星山(標高1030m)を水源とした豊富な水量で高さ約110m幅約20mの全国稀に見る豪壮絢爛なめいばくです。 またその周辺に生い茂る老木珍種の植物は塵外の山峡をかもし出し園内には「玉垂れの滝」、「滔々の滝」、「鬼の穴(鍾乳洞)」、等あり興味をそそる風光明媚な公園です。 入園料大人300円 駐車場は無料(少ないです。) |
写真は2012年9月26日撮影 場所はワイワイマップ『綺麗な花が咲く所のMAP』にスポット投稿します。 |
正式名称は「金陵山(きんりょうざん)西大寺」といい、高野山真言宗別格本山で、本尊は千手観音が安置されています。 寺伝によれば宝亀八年(777)、安隆上人(あんりゅうしょうにん)が寺を建てようと瀬戸内海を進んだとき、海中から竜神が現れ、上人に犀のの角を授けた。上人はそれを埋め、その上に寺を建て「犀戴寺(さいだいじ)と名を付けた」とあり、これが西大寺の名の由来といわれています。 毎年二月の第三土曜日の夜に行われる絵陽(裸まつり)は、日本三大奇祭と有名となっています。 岡山市設置説明板より抜粋しました。 現存する本堂は文久三年(1863)に建て替えられ県下最大級の総欅造りの建築物です。 堂内で特異なは宝木(しんぎ)を投下する御福窓(ごふくまど)が設けられ、古来よりここに上がると五福(長寿・財運・無病・積徳・天命成就)の後利益を授かると言われて来ました。 また、縁起絵巻会陽の歴史の紹介や寺宝掛け軸を展示しており正月三が日には朝鮮鐘(重文)を撞ける事ができる。 拝観料大人500円 拝観時間 午前9時より午後4時まで 西大寺金毘羅大権現縁起 当処には、当山の鎮守牛玉所大権現と、もと讃岐の象頭山に安置されていた金毘羅様のご本体である不動明王と毘沙門天の二尊を合わせてお祀りしています。 日本古来の神と、中国から伝えられた仏とは元来同一のものだという説が起こり、鎌倉時代には神仏習合の思想が確立しました。 以来寺の境内に神社を建て、僧侶が神をも祀るようになり、この思想習慣は江戸時代まで続きます。 明治になると日本は神国であり、外国から渡来した宗教は廃した方が良い。仏教や寺院は破壊すべきであるという暴論により仏教は迫害されました。 讃岐の金毘羅さまは象頭山松尾寺金光院の鎮守としてお祀りされていましたが、時の住職はこのとき寺を神社に改め、僧侶をやめて神職として日本の海上安全の神である金毘羅様を祀る事となりました。 金毘羅さまのご本体は仏像であったため破壊されそうになりましたが、松尾寺の末寺萬福寺の住職宥明師はこれを憂い、明治七年自分の故郷である当所津田村の角南助五郎宅に深夜密かに持ち帰り、二階に安置しました。 もとの岡山藩主池田章政公は、廃藩置県によって東京に移り住んで居られましたが、この事を耳にされ、難を避けるため一旦自分の祈願寺に移されました。 明治十五年三月五日、当山の住職長田光阿上人は池田家に相談の後金毘羅さまのご本体である不動明王と毘沙門天を当処に勧請されました。 尊像の納められた厨子には池田章政公によって、『天下泰平・万民豊楽』の祈願文があざやかに記されています。金陵山西大寺 説明板より転載しました。 写真は2012年5月22日撮影 場所はワイワイマップ『寺院・お堂map』にスポット投稿します。 仁王門
本堂 三重塔 三十三観音尊像 手洗舎 境内の建造物 金毘羅大権現 |




