奈良・鎌倉時代の「海の駅」で有名だった胸上港 は、明石から二十五里にあたり、言うなれば五里港であり、中世より避難港として栄えたと推察されます。 西方(西国)からの航海では、下津井を出航した船は、日比の港を左舷に見て宇野(玉野市)の出崎を目標にして胸上に、東方(上方)よりの航海では、牛窓(瀬戸内市)を出航した船は犬島を見て胸上に入港しました。 江戸時代までは、潮待ち・風待ちをした。出船入船で賑わった港町です。 陸路に比べて海上交通の発達は目覚ましく、産業としては、塩業・醤油・綿花・二次産業として小倉織物等も生産され、出荷での海上運送の往来も激しく豊かになり、海の神様「金毘羅大権現・由加大権現」の信者も増えて、金毘羅参りの船や摂津・堺への物産の積み出しで、江戸時代繁栄をした港町でありました。 金毘羅石灯籠は、胸上漁協前隅にあります。 文は、讃岐の街道・金毘羅参詣道より転載しました。 写真は、2011年10月18日撮影 場所は、ワイワイマップにスポット投稿します。 現在の港風景
明治八年 金比羅宮・氏八幡宮献灯石灯籠 ワイワイマップの見方 yahooトップページ→地図→ワイワイマップ→「金毘羅灯籠」検索→《金毘羅街道・金毘羅灯籠map》を スクロールで選定する。 |
金毘羅灯籠のある港
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北岸は天然の良港で、元禄時代(1690年代)、岡山池田藩によって西国大名の参勤交代などの風待ち港として筑港がなされ、在番所・御用家・加子番所などが置かれた。また、岡山藩が町人長屋を建て、移住者に無償提供したことから開拓が進められ、内海航路の要地として発展した。 写真は2011年2月21日撮影 場所はワイワイマップにスポット投稿します。 大井戸 昭和55年8月12日 備前市指定文化財指定(史跡) 直径2m、深さ6m 大多府島の歴史を語る物の一つがこの大井戸です。ここには六角井戸が二つ並んでおり、これが大多府島唯一の水源でした。 元禄11年(1698)大多府港の開港と同時に造られたと伝えられる。開港以来水道開設まで、最盛時島民は1000人と16ヘクタールの耕地をまもり伝えてきた歴史をもっている。 井戸は、当時の作事奉行「津田永忠」の元に近隣の名主を動員して構築された。 文は、港にある説明板などより抜粋しました。 アクセス:船から降りるとそのまま住宅方面へそのまま細い路地に入る入ると左側に見えてきます。 他に、二基の石灯籠が残っている。春日神社横の防波堤の付け根に残っている灯籠には、竿に春日神社・瑜伽大権現・金毘羅大権現・奉鐙と刻まれ、安政三丙辰年夏六月吉日、下の段に當所世話方「新五郎」「若連中」とあります。もう一基は旧防波堤の内側に残されています。竿に金毘羅大権現・瑜伽大権現・奉燈と刻まれています。両基とも宝珠が無い。勿論二基とも開発により移築されたものと推測されます。 石積み防波堤 元禄10年、参勤交代で出府途次の薩摩藩主島津公が、台風のため大多府島に避難した。江戸城で備前藩主池田綱政公に大多府の天然の良港ぶりを説き、割譲を申し込んだ。 備前藩主は早馬にて岡山へ大多府港を命じたと言う。港は備前藩郡代「津田永忠」の総指揮により、一年足らずで港湾施設を整備、開港した。 それ以来、潮待ち、風待ち港として内海航路の要衝となり、近年は海運の母港・漁港として発展した。 石積みの防波堤は現在も当時の威容を留め、「元禄波止場」と呼ばれ平成10年1月登録有形文化財指定されました。 津田永忠造営の百間川河口の唐樋水門の石柱を移し、平成10年10月に石碑とした。 平成18年2月には、「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財百選」にも選ばれている。 ワイワイマップの見方
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田の口港は「瑜伽大権現」の参詣の受入港として、賑わった港町でした。由加山は、全国でも珍しく多くの表参道「東・西・南・北」をもっています。 田の口の波止場上がりに口正面に、大鳥居と唐獅子一対が金毘羅さんと南北線上にあって対面しているのが南表参道入口を示しています。 これは背後の由加山蓮台寺への門前港として栄えた港町で、瑜伽参道には道標や宝塔、格子戸や土蔵のある旧家が昔の名残を漂わせ、町の佇まいが繁栄した当時をあちこちに残し、今日までの世の移り変わりと時の流れを感じさせてくれる港町であります。現在は漁港として存在しています。 写真は2011年1月3日撮影 場所はワイワイマップにスポット投稿します。 この海の先が金毘羅 港の上がると両脇に唐獅子(焼き物) 南口大鳥居 堤防の石灯籠 国道沿いの金毘羅・瑜伽大権現石灯籠 ゆか道標 ワイワイマップの見方
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田之浦港(旧田ノ浦村)・下津井港(旧下津井村)・吹上港(旧吹上村) 田之浦浦漁港は下津井の最東部の港で西の祇園の鼻に有る祇園神社の常夜燈に対して東の鼻にある木製の燈篭台は今も港に残っている金毘羅宮の献灯でもある。 岡山県下最大の漁獲量を誇る漁港である下津井は、タコやイカナゴ、鯛やメバル、岡山県の郷土料理として知られるママカリ(サッパ)などの近海魚を扱う。回遊魚ではサワラやマナガツオなど。戦後はハマチ(ブリ)などの養殖も行っている。江戸時代の下津井は北前船の寄港地として廻船問屋が立ち並び遊廓も置かれ、色町の豪華さは岡山の西中島を凌ぐと謳われたほどであった。 文は岡山県とWikipediaなどより転載しました。 写真は2011年1月3日撮影 場所はワイワイマップにスポット投稿します。 ワイワイマップの見方
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下津井は江戸時代に蝦夷地(北海道)のニシン粕を積んだ北前船、参勤交代の西国の大名の船、諸国の商船などが出入りする大変賑やかな港として、また上方(大坂川口から明石・室津・牛窓・下津井・鞆)から十里港として金毘羅往来の発着港として栄えました。 下津井港は、岡山県中南部の児島半島南端に位置し、西は水島港と接しています。 古代・中世から海運・軍事の要衝であり、江戸時代、風待ち潮待ちの港として、また、四国の丸亀と連絡する琴平参詣船の発着港として繁栄してきました。瀬戸内海航路の要港であり、北前船や参勤交代の御座船も寄港し、人や物が集まる港として繁栄は幕末まで続きました。明治期に入ってからは、鉄道等の陸運の発達や汽船の出現によって次第に衰微し、大正以降、漁業を中心とした瀬戸内海有数の漁港としての性格を帯びるようになりました。 現在の下津井地区は、祇園鼻の西が県管理の下津井港、東が県管理の下津井漁港となっています。 下津井漁港(第二種漁港) 下津井漁港は次の3港から成る。江戸時代には北前船の母港でもあった。 下津井港(旧下津井村)・吹上港(旧吹上村)・田之浦港(旧田ノ浦村) 岡山県下最大の漁獲量を誇る漁港である下津井は、タコやイカナゴ、鯛やメバル、岡山県の郷土料理として知られるママカリ(サッパ)などの近海魚を扱う。回遊魚ではサワラやマナガツオなど。戦後はハマチ(ブリ)などの養殖も行っている。江戸時代の下津井は北前船の寄港地として廻船問屋が立ち並び遊廓も置かれ、色町の豪華さは岡山の西中島を凌ぐと謳われたほどであった。 文は岡山県とWikipediaなどより転載しました。 写真は2011年1月3日撮影 場所はワイワイマップにスポット投稿します。 ワイワイマップの見方
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