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香川県高松市屋島中町『四国村』のチューリップ
四国村の灯台関係の建物が立ち並んでいる南側の花壇に咲いている。現在は散りかかっているので今週で終わりになりそうです。
撮影日:2013年4月19日
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四国民家博物館「四国村」
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旧丸亀藩斥候番所 香川県指定有形文化財(建造物)昭和59年8月14日指定 元の所在地 香川県観音寺市豊浜町箕浦
この建物は、香川県と愛媛県の境の三豊郡箕浦の港に面して建っていました。 北側が海、南側が山という地形の箕浦には、藩政時代、2つの番所がありましたが、海側の警備にあたっていた方は残っておらず、地元民が詰めていたこの番所だけが残っています。 屋根は寄棟造りで、鬼瓦や軒丸瓦に京極藩の家紋がみられ、このような番所が残っているのは全国的にも珍しいものです。表に建てられた標柱にも趣が感じられます。 建物の中は、土間を含めて表側と裏側に二分した形になっていて、民家とはかなり違った間取りである。この家の屋根の下地は奥の座敷のみ杉皮を使い、他は筵(むしろ)になっているのも面白い。 建築年代は明確ではないが、十八世紀末頃かと思われる。 文は四国村HP&現地説明板より転載しました。 写真は2011年6月21日・2013年3月6日撮影 讃州豫州境従是東丸亀領 裏面に従丸亀是迄八里壱七町と刻まれている。
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河野家住宅
旧所在地 愛媛県上浮穴郡小田町上川乙96 重要文化財 昭和五十七年二月十六日指定
河野家住宅は愛媛県の南、小田町の深い谷脇の奥まった急斜面にへばりつくように建っていた。間口六間半(12.62m)奥行き三間半(6.74m)寄棟造り、茅葺で棟に小さな破風をつけ、主屋は入母屋造りのように見せかけている。茅葺の屋根を下屋まで葺き降ろしにしている。
土間脇に茶の間、その奥に座敷をとる二間取りである。部屋の床は、すべて竹を敷き、各部屋に囲炉裏が切られ、茶の間前面が閉鎖的で小さな格子窓だけである点、座敷前面に縁側を設けている点など特徴がある。土間には和紙のの原料にあうる楮(こうぞ)を蒸す竈(くど)があり、その上に大きな桶(おけ)が吊下げられている。この家の建築年代を示す史料は無いが、他の家では見られない古い形式、手法が使われており、十八世紀前半ごろの建築と推定される。南予地方を代表する優れた民家である。 建物の内部は、現在は座敷の奥に天袋をもった板戸の押し入れが設けられているが、これは建物が出来た当初は造られていなかったもので、後に改造されたものである。従って建築当初はほとんど収納施設が設けられてないというところに特徴がある。
楮蒸しの装置は、土間の奥の方に設えており、竈と上の桶がセットになる。竈は石を積んで焚き口とし、その上に鉄鍋が乗せられている。この鉄鍋に楮を束ねて立てその上から桶が被せられ、楮が蒸しあげられるようになっている。
文は現地説明板&四国村冊子より転載しています。
写真は2013年3月6日撮影 茶の間
座敷
土間より茶の間越しの座敷
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小豆島歌舞伎舞台
高松市指定有形文化財 昭和五十八年三月一日指定 香川県小豆郡土庄町小部地区寄贈 島の人達にとって、たった一つの楽しみが、春秋の祭に開かれた島歌舞伎の舞台がこれである。
寄棟造り茅葺で舞台の間口は六間(12m)回り舞台は直径二間半(4,7m)上手には義太夫の座とお囃子座が二段にある。他に楽屋がある。 建築年代はよくわからないが「文久三年(1863)亥吉日。片岡市朝祭礼振付仕候」と墨書きがあるので、江戸時代末期のものであろうか。役者は地元の農民だった。 厳しい労働に明け暮れた島民にとって、島歌舞伎はどんなに待ち遠しかったことか。村民あげての声援に、役者も熱演したことであろう。見物人の歓声が聞こえるようだ。 尚、現在小豆島には現在重要民俗有形の歌舞伎舞台が二箇所残されており年に数回の公演が行われています。 《墨書きにある文久三年(1863)には長州藩が外国船を砲撃し、薩摩藩はイギリスの戦艦に砲撃されて降伏した。公武合体政策を進める徳川家茂の上洛に際し、高松藩は京都二条城の警備にあたるなど時代が大きく変化していた。同じ頃ロンドンでは世界初の地下鉄が開通し、アメリカではリンカーンが「人民による、人民の為の政治」を宣言した。》
文は現地説明板などより転載しました。
写真は2011年6月21日撮影 四国民家博物館「四国村」は、香川県高松市屋島中町字山畑91番地にある日本の江戸時代から明治時代の民家を中心とする古建築をテーマとする博物館。昭和51年(1976)に開館した。運営は、公益財団法人四国民家博物館 屋島南嶺の麓の広大な敷地に、四国各県と兵庫県から移築・復元した江戸時代から明治時代の民家、伝統産業施設、灯台をはじめとする建築物を展示する屋外型博物館である。国指定の重要文化財建造物2棟、重要有形民俗文化財の建物6棟をはじめ、ほぼ全ての建造物が文化財の指定・登録を受けている。 |
平成14年(2002)村内に安藤忠雄設計の美術館と庭園で構成される四国村ギャラリーが開館した。 四国村の入り口から出口まで、ゆっくりと歩いて約2時間ほどでお楽しみいただけます。(履物に注意) 民家のこころ むかし、四国は本州からまったく隔絶した島であった。八十八か所を廻る巡礼を遍路と呼んだのは「偏僻(へんぺき)の道を巡る」意味だった。未知で神秘のクニだった。山々には神仏が住み、天狗が羽ばたいていると恐れられた。住民は信心深く辛抱強い働き者だった。極貧に耐え身を粉にして働いた。 盆と正月と節句、それに春秋の祭礼のほかに休む日は無かった。粗衣粗食は今の常識を超えたものだった。その中でただ若者の「性」だけが時に奔流した。その苦労が柱や壁にしみ込んでいるのがここに集められた民家である。 先人たちの「くらしの記念碑」内部は狭く、暗い。しかし頑丈な木組みと逞しい大黒柱がどっしりと屋根を支えている。茅葺は強い。一度葺けば五十年はもつ。しかも暑さ寒さをしのぎやすい。生活の知恵から、様々の工夫が見られるのは興味深い。 この中に祖父母から孫まで大家族が、寄り添って生活した。何が無くても、囲炉裏を囲む一家だんらんがあった。「貧しく哀しく、しかも美しく」先祖たちは生きてきた。 心は荒み、感謝を忘れ、自然の恵みを感じない現代人。親子の断絶が問われる世相のなかに、民家は何を訴えようとしているのであろうか。 荒廃した現代に問う、民家のこころ如何に。 財団法人 四国民家博物館 --大久野島燈台--:元の所在地 広島県竹原市忠海町(大久野島南端) 大久野島は広島県竹原市沖合に浮かぶ周囲4kmの小さな島である。この灯台は明治二十六年島の南端に建設され、翌二十七年五月十五日に初点灯した。 光源は当初は石油によったが、大正十一年からは電灯に替った。明三秒暗三秒、光は13.5海里(約25km)先まで届き、三原瀬戸の要所を照らした。戦争中、軍事機密のために大久野島が地図から消されていた時期がある。 この灯台はその暗い歴史を見守り続け、平成四年老巧化のため建て替えられることとなった。 基礎が3.8mの円形で高さ5.1m直径3.1m。灯塔部は花崗岩の切石積になっており、その上に乗る塔器は鋳鉄(ちゅうてつ)製で高さ2.4メートルにもなります。 --江崎燈台退息所--:元の所在地 兵庫県津名郡北淡町野島箙(えびら)江埼組字小磯17番地(現兵庫県淡路市野島江崎) 江埼灯台は瀬戸内海の難所と云われる明石海峡を望む、淡路島北端にある。英国の技師R・H・ブラントン氏の設計により、明治四年(1872)に点灯した。わが国八番目の洋式燈台である。 退息所は石造りで、壁体は奥行き60cm程の切石を積、木造トラスで桟瓦葺きの屋根を支えた重厚な建物である。間取りは中廊下式式で多くは畳敷きの部屋になっている。 平成七年(1995)一月阪神・淡路大震災により、石造壁体に大きな亀裂が入り、屋根瓦が落下するなど大きな被害を蒙った。当四国村はこの建物を移築し、復原保存しる措置をとった。 この退息所は、本格的な石造建築であり、建築当初の木造トラスを残すなど、洋式燈台の黎明期(れいめいき=文化・時代などがはじまる時期の意)の貴重な建物です。 --鍋島燈台退息所--:元の所在地 香川県坂出市与島町鍋島1016 鍋島灯台は坂出市の沖合い、鍋島にあります。江埼燈台と同じく英国の技師R・H・ブラントンが設計した洋式燈台で、初点灯は明治5年(1872)です。 職員宿舎の退息所は翌6年2月に竣工し、昭和30年(1955)頃まで本来の宿舎として使用されましたが、その後は海上保安本部の通信施設となっていました。 建物は石造で、正面に円柱6本を建てて吹きはなしとし、壁は奥行60cm程の切り石を積み、桟瓦葺の屋根の重厚な建物です。 間取りは中廊下式で、暖炉のある部屋、畳敷きの部屋などがあります。また、外側に浴室や便所などが張り出しており、付属の物置も同様の石造となっています。 この退息所は、本格的な石造建築で、正面に円柱列を建てるなど、洋式燈台の黎明期の貴重な建物となっています。 --クダコ島燈台退息所--:元の所在地 愛媛県温泉郡中島町(現松山市上怒和)(クダコ島) 部屋ノ瀬戸にある小さな島(怒和島クシノ鼻と中島城ノ鼻との間に在る島) クダコ島燈台は愛媛県松山市の沖、クダコ水道にあります。明治35年(1902)7月に着工、翌年3月に竣工、初点燈しました。燈台の無人化にともなって、この退息所は不要になったため、当四国村に移築復原されました。 この建物はレンガ造で、外壁がモルタル仕上げ、屋根は桟瓦葺です。 内部は左右二つに分け、二家族用にし、押入付き和風の部屋が配してあり、かまどもあります。また、付属する物置も退息所と同じ構造です。 この退息所は明治後期の建築で、部屋も和風の要素が強くなっています。洋式燈台初期のものとは幾つかの点で異なり、わが国の燈台建築の変遷を知るうえで貴重な資料となっています。 文は現地説明板&四国村HPなどより転載しました。 写真は2011年6月21日撮影 |




