屋島南嶺の麓の広大な敷地に、四国各県と兵庫県から移築・復元した江戸時代から明治時代の民家、伝統産業施設、灯台をはじめとする建築物を展示する屋外型博物館である。国指定の重要文化財建造物2棟、重要有形民俗文化財の建物6棟をはじめ、ほぼ全ての建造物が文化財の指定・登録を受けている。 平成14年(2002)村内に安藤忠雄設計の美術館と庭園で構成される四国村ギャラリーが開館した。 四国村の入り口から出口まで、ゆっくりと歩いて約2時間ほどでお楽しみいただけます。(履物に注意) 民家のこころ むかし、四国は本州からまったく隔絶した島であった。八十八か所を廻る巡礼を遍路と呼んだのは「偏僻(へんぺき)の道を巡る」意味だった。未知で神秘のクニだった。山々には神仏が住み、天狗が羽ばたいていると恐れられた。住民は信心深く辛抱強い働き者だった。極貧に耐え身を粉にして働いた。 盆と正月と節句、それに春秋の祭礼のほかに休む日は無かった。粗衣粗食は今の常識を超えたものだった。その中でただ若者の「性」だけが時に奔流した。その苦労が柱や壁にしみ込んでいるのがここに集められた民家である。 先人たちの「くらしの記念碑」内部は狭く、暗い。しかし頑丈な木組みと逞しい大黒柱がどっしりと屋根を支えている。茅葺は強い。一度葺けば五十年はもつ。しかも暑さ寒さをしのぎやすい。生活の知恵から、様々の工夫が見られるのは興味深い。 この中に祖父母から孫まで大家族が、寄り添って生活した。何が無くても、囲炉裏を囲む一家だんらんがあった。「貧しく哀しく、しかも美しく」先祖たちは生きてきた。 心は荒み、感謝を忘れ、自然の恵みを感じない現代人。親子の断絶が問われる世相のなかに、民家は何を訴えようとしているのであろうか。 荒廃した現代に問う、民家のこころ如何に。 財団法人 四国民家博物館 --石蔵:香川県小豆郡土庄町北浦字見目地区(旧北浦村)より移転 この地区出身で大阪に出て事業に成功した「藤原兵太郎」氏が大正四年(1915)一千二百九十七円八十七銭五厘なりで建造した石の蔵 藤原氏は公債一万四千円を村へ寄附し、それをこの中に入れて保管した。この公債の利子で北浦村の財政をまかない村民税は大いに軽減されてと云う。 蔵は、茨城県稲田産の花崗岩を取り寄せて造った。かつて天皇のお写真を入れた奉安殿を思わせるようながっちりとした建物である。一万四千円は、平成九年の貨幣価値に換算すれば、約四千万円相当であろうか。当時は物価の安い時代であったから金銭は数次以上の価値があった。 切石積、鉄扉両開、軒蛇腹付陸屋根の異色の建造物である。 --前田家土蔵:水切庇つき土蔵 高知市布師田(ぬのしだ)に、明治初期に建てられた。特色のある土蔵である。間口三間、奥行き二間、壁に七寸の厚さ塗り、その上に漆喰で仕上げてある。屋根は鞘屋根といって二重になっており、近所の火事の火の粉や大雨から土蔵を守っている。 高知は全国でも有数の多雨地帯である。周囲の壁三面の水切が付いているが、これは単なる趣味的な装飾ではなく、横なぐりの雨水が壁面を傷めるのを防ぐ用をしている。高知には石灰岩の産出が多く、したがって漆喰は特産であり、その技術も高い。これらの事が相まって水切土蔵が造られたのであろう。 土蔵入口横に付いているのは、番屋と呼ばれ、隠居屋と離れ座敷を兼ねていたために立派で大きい。 このような土蔵は平野部に多く、漁村や山間部ではあまり見られない。 --三崎の義倉(ぎそう):高知県土佐清水市三崎より移転 この建物は「三崎の義倉」と呼ばれていたもので、江戸時代の文政二年(1819)に庄屋の「沖市左衛門」らが設置した。 義倉とは、平時に稲や麦を貯蔵しておいて、飢饉の際には種籾や食糧の補助として支給する制度である。奈良時代には既に制度化されていたが、その後廃絶した。しかし江戸時代になって再び復活し、各藩に設置されるようになった。 この義倉は昭和十五年(1940)頃まで機能していた。しかしその後維持管理が困難になり、ここに移築復原されることになったものである。 制度としてはよく知られているが、その建物が保存されている例は極めて稀で、当時の農民の暮らしや、生活史を知る為の貴重な文化財である。 ワイワイマップの見方
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四国民家博物館「四国村」
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屋島南嶺の麓の広大な敷地に、四国各県と兵庫県から移築・復元した江戸時代から明治時代の民家、伝統産業施設、灯台をはじめとする建築物を展示する屋外型博物館である。国指定の重要文化財建造物2棟、重要有形民俗文化財の建物6棟をはじめ、ほぼ全ての建造物が文化財の指定・登録を受けている。 平成14年(2002)村内に安藤忠雄設計の美術館と庭園で構成される四国村ギャラリーが開館した。 四国村の入り口から出口まで、ゆっくりと歩いて約2時間ほどでお楽しみいただけます。(履物に注意) 民家のこころ むかし、四国は本州からまったく隔絶した島であった。八十八か所を廻る巡礼を遍路と呼んだのは「偏僻(へんぺき)の道を巡る」意味だった。未知で神秘のクニだった。山々には神仏が住み、天狗が羽ばたいていると恐れられた。住民は信心深く辛抱強い働き者だった。極貧に耐え身を粉にして働いた。 盆と正月と節句、それに春秋の祭礼のほかに休む日は無かった。粗衣粗食は今の常識を超えたものだった。その中でただ若者の「性」だけが時に奔流した。その苦労が柱や壁にしみ込んでいるのがここに集められた民家である。 先人たちの「くらしの記念碑」内部は狭く、暗い。しかし頑丈な木組みと逞しい大黒柱がどっしりと屋根を支えている。茅葺は強い。一度葺けば五十年はもつ。しかも暑さ寒さをしのぎやすい。生活の知恵から、様々の工夫が見られるのは興味深い。 この中に祖父母から孫まで大家族が、寄り添って生活した。何が無くても、囲炉裏を囲む一家だんらんがあった。「貧しく哀しく、しかも美しく」先祖たちは生きてきた。 心は荒み、感謝を忘れ、自然の恵みを感じない現代人。親子の断絶が問われる世相のなかに、民家は何を訴えようとしているのであろうか。 荒廃した現代に問う、民家のこころ如何に。 財団法人 四国民家博物館 写真は2010年11月24日・2011年6月21日撮影 場所はワイワイマップでスポット投稿します。 流れ坂(流政之作) 屋島に隣接する庵治の石切り場から切り出された花崗岩が使われています。木漏れ日の間に、豪快かつ様々な表情をみせる花崗岩の美しさを鑑賞しながら、ごゆっくり散策してください。 浜田の泊屋(四国村入村券販売所) 黒潮に鍛えられた土佐の若者組の宿泊所らしく、自然木の柱をふんばり、逞しい姿を見せている。高い床は南国の青年たちの理想を象徴しているようにもみえる。入母屋造桟瓦葺高床式。 土佐には若者組があって、男は十五歳になると「タノミザケ」を一升持参して仲間入りし合宿して鍛えられた。男は六尺の赤ふんどし、女は十四歳から腰巻をしたと云う。いわば一人前の男女となった印だった。夜は泊屋に集まって先輩から、性教育をはじめいろんな教育を受けた。祭礼の時は、行事の中心になった。 火災、船の遭難、急病人などの非常時には大活躍をした。その泊屋も、今は殆ど姿を消した。これは高知県宿毛市にある。国の重要有形民俗文化財を模したものである。(文は現地説明板より) 異人館(カフェ)=登録有形文化財(建造物) この建物は、明治三十八年(1905)、英国人「ワサ・ダウン氏」の住宅として、神戸市生田区北野町に建てられ、昭和十九年から日本郵船株式会社の船員寮として改造、使用されていたものです。 四国民家博物館建設にあたり、日本郵船の特別なご厚意で寄贈され、神戸市教育委員会のご理解とご指導によって、最初の姿に復元移築さらた。 異人館の前にある「ガス燈」と「ポスト」は、ロンドン南部のチェルシーにあったものです。 羊飼い像とガーデンテーブルチェアなどは十九世紀後半のもので、ハンプシャーのマナーハウス(領主の館)で使われていました。(文は現地説明板より) 旧吉野家住宅(漁師の家)=高松市指定有形文化財 徳島県の太平洋に面した断崖の下、徳島県海部郡由岐町(現美波町)伊座利にあった「漁師の家」。切妻造り平屋建て本瓦葺きの家で、強風を防ぐ役目をしている周囲の石垣を伴っているのは、この地区の漁家の特徴です。 昔、鰤の大敷網の漁場であったこのあたりに、よそから網元が進出して大漁が続いていました。それを見た地元の漁師が、借金をして大網を張ったところ、不運にもその年から不漁続きで大損をし、多額の借金が残ってしまったのです。他の地区では住居の改築をしたのに、ここだけは建替えができず貴重な文化財となっています。 ワイワイマップの見方
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