六万寺は東に源氏ケ峰、西に屋島。源平ゆかりの地に囲まれ、五剣山の南麓にたたずむ六万寺は、寿永二年(1183)、三種の神器を奉じて身を寄せた安徳天皇の行在所として知られている。 寺記などによると、開基は天平年間。全国に伝染病が流行し、多数の死者をだしたので、聖武天皇は、行基菩薩に命じてこの地に一寺を建立し、お祈りさせたところ忽ち伝染病は消滅したという。 その後有志により六万躯の小仏像を安置して六万寺と称したと伝えられている。また牟礼、大町附近に四十二の支院を持つ広大な寺院だったが、第二次大戦後の農地改革で寺領の田畑を失い、急速に衰退。九十年代の約十年間は無住になり、境内には野犬が住みついたという。 寿永二年源平合戦の時、安徳天皇の行在所(あんざいしょ)となった由緒ある寺であるといわれています。 しかし中世兵火のため焼失したがその後復興された。 現在の建物は、延宝六年再興されたものであるといわれています。寺宝も多数あるようで管理保存に苦労しているようです。 087-845-7233 文は高松市報&四国新聞記事&Wikipedia&現地説明板などから転載しました。 写真は2012年2月27日撮影 場所はワイワイマップ『源平ゆかりの地map』にスポット投稿します。 階段の上がった所に山門が有った。
山門がある写真↓↓↓↓ http://www.city.takamatsu.kagawa.jp/kankou/genpei/index.html 本堂 大師堂(ブルーシートの下は土俵がある。) 鐘楼 愛宕大権現拝殿(毎年秋分の日にはここで社殿に子供神相撲を奉納する。) 子供神相撲 高松市の無形民俗文化財に指定されている「田井の子供神相撲」が毎年秋分の日に行わる。、香川県高松市牟礼町の六万寺境内にある同寺の鎮守・愛宕権現に神相撲の型を奉納します。(少し前までは長男だけが参加できる行事であった。現在は小学生が伝統を保存している。) 六万寺の茶室 4畳半の茶室と8畳の広間、2畳の水屋を備え、離れて腰掛け待ち合いがある。 茶室の広さ 4畳半▽客付き 本勝手▽床柱 アテ▽床框(とこがまち) 北山杉太鼓落とし▽床天井 杉の一枚板▽床 うすべり床▽床壁 塗りまわし床▽落とし掛け キリ▽天井 平天井▽出入り口 貴人口、茶道口ほか▽窓 下地窓ほか 離れて腰掛け待ち合い 安徳天皇生母徳子(建礼門院)之碑 |
源平ゆかりの地
[ リスト | 詳細 ]
源氏方及び平家方のゆかりの地と資料等展示場(博物館)の書庫です。
源平合戦の語り草として伝承、この戦いは寿永四年(1185)源義経の屋島攻めの一説。 相引川は当時「川」でなく、「相引きの浅瀬」であった。 義経は平家の陣があった屋島に渡る浅瀬を探していた所、高松村より赤牛が瀬を渡る様子を見た義経の家臣、後藤兵衛実基が義経に進言、深夜に牛の角に松明を付けて眼前の瀬を渡らせ、その後を追って義経は騎馬軍勢を進め「瀬の渡り」を敢行して屋島に攻め入った。この事が、牛塚神社創建の「いわれ」と牛への感謝となっている。神社庁への登記は「牛森神社」 《歳月人を待たづ 風雪時をきらはず この「祠」何時の日 誰の手で 今 此処にあるや 知る人絶えていく歳 行く先 先を如何せん 里人の想いは厚く歴史を築くか》 現地説明石碑より転載しました。 写真は2012年9月20日撮影 場所はワイワイマップ『源平ゆかりの地map』にスポット投稿します。 |
寿永四年(1185)二月、屋島源平合戦のおり、源氏軍は瓜生ヶ丘(高松市牟礼町)に陣を構えました。 当時、屋島は島であったことから容易に渡ることができませんでしたがたまたま高松方面(高松市古高松)から赤牛が渡れるということを聞いて(夜中に牛の角に松明をつけて渡ったともいわれている。)浅瀬がある事を知った義経は、後藤兵衛父子ら源氏郡30余騎に海を渡らせ屋島に上陸、平家軍の陣営に攻めよせる事ができたと伝えられるところから、この地に赤牛崎の名が残っています。 高松市観光協会説明板より転載しました。 相引川の由来 屋島と本土とを分けていた相引の浜は浅瀬で、潮の満干によって東西に引いていたので「相引の浜」といわれていた。十七世紀初期に讃岐領主生駒氏の家臣「西嶋八兵衛」によって干拓・造成され農地となった。 これによって生駒氏は十七万石から二十三万石になったといわれる。美しい潟は消えたわけである。しかし寛永年間に新しく領主となった「松平頼重」が、史跡を大切にすべきと、相引川を開削、屋島は再び島となった。(法定上は海峡でなくあくまで河川であるため屋島は島でなく四国の一部である。)東西に潮が引いたので相引といわれた。延長5,01kmの川で両端に河口を持つ珍しい川です。 文はWikipedia&津森 明 著『義経讃岐を駆ける』&現地説明板などより参照・転載しました。 場所はワイワイマップ(源平ゆかりの地map)にスポット投稿します。↓↓↓↓ http://waiwai.map.yahoo.co.jp/map?mid=LdpXt7XEmdd1vSc6KFV.L3u_YABeM9lur1WKfT_9Quw.vvxCCoc- あかうしばし 写真は2012年1月9日撮影 |
源平合戦の時、那須与一が祈り岩で神明に祈願を終え、海の中のこの岩まで駒を進め足場を定めて、波に揺れ動く船の扇の的を見事に射落としたので駒立岩といわれています。 高松市教育委員会説明版より転載しました。 平家の船に美女が現れて源氏側に向かって船上に立てた扇の金の日の丸を射てみよと扇動した。波の上の船は揺れるし、源氏側にとっては射れないと恥である。そこで那須与一宗高という若武者が進み出て祈り岩で南無八幡菩薩と必死で祈り、ついに一発で射止めた。その際に駒を乗せた岩といわれる。祈り岩近くの入江にある。 与一は下野那須の住人。父資隆の第11男である。 今でも入江に潮の満干によって見え隠れする。与一が駒を乗せたとすればかっては完全に海中にあったのだろう。 以上の文は津森明著『義経讃岐を駆ける』より転載しました。 写真は2012年7月27日撮影 場所はワイワイマップ『』にスポット投稿します。 |
永二年九月、平氏は安徳天皇を奉じて六万寺を行在所として(屋島檀ノ浦の行宮の出来るまで)ここで門を構えて、海辺の防御に備えました。総門はこの遺跡です。 後、檀ノ浦に行宮を遷してからも、この門を南部の重鎮として大いに源氏軍を防ごうとしましたが、ついに源氏の占拠するところとなりました。当時この付近は海辺でした。 標木は高松藩主「松平頼重」の建てたもの、碑は野津大将題、黒木欽堂撰書“夏草や”の碑は久保不如帰氏作。 高松市教育委員会説明版より転載 平氏が源氏の侵攻に備えて門を造り安徳天皇を擁して強固な守りにした。しかし源氏に占拠され源氏の総門となった。後の領主松平氏は源氏出身でもあり、この由緒ある総門をことのほか大事にした。 明治三十六年に陸軍大将野津道貫題額、黒木欽堂撰の書で高さ3,8mの総門碑が建った。 往時の総門は今の場所より少し南にあったとも見られるが海からの出入り口がこの門であった。この門の遺構らしきものも高松藩「松平頼重」の建てたものである。継信の射落畠のすぐ近くで往時の海岸であろう。 以上の文は津森明著『義経讃岐を駆ける』より転載しました。 写真は2012年7月27日撮影 場所はワイワイマップ『源平ゆかりの地map』にスポット投稿します。 総門
総門碑 久保不如帰の句碑 |




