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香川県と近県を旅しときの風景・四季を記録したブログ。 古い讃岐も

源平ゆかりの地

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源氏方及び平家方のゆかりの地と資料等展示場(博物館)の書庫です。
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祈り岩

【祈り岩】
「祈り岩」は香川県高松市牟礼町の県道36号沿いの商店の角の一段と低い所に残っています。
 源平合戦の時、那須与一が平家の船に立てた竿のさきの扇の的を射る時この岩の所で『南無八幡大菩薩、わけても私の生まれた国の神明日光権現、宇都宮那須大明神、願わくばあの扇の真ん中を射させ給え』と祈ったと伝えられ祈り岩と呼ばれています。
 『いの里岩』の字は、松平頼重公の臣「箕輪野六」の書と伝えられています。
 源平屋島合戦八百年祭準備実行委員会 説明板より

 那須与一宗高の扇の的を射る際に神に誓ったとされる岩で「いの里岩」の碑がある。今は庵治街道沿いの民家の前に半ば土に埋まっている。当時は海浜にあった岩。
 「源平盛衰記」に詳しく出ており、あっぱれな与一の弓術に義経は大いに感じ入って黒い鞍を付けて名馬を与えたと書いている。しかしこの扇の的の後に船上の武士も討ったので興醒めして白兵戦になったとか。
 津森明著「義経讃岐を駆ける」より抜粋しました。

 写真は2012年7月27日撮影
 場所はワイワイマップ『源平ゆかりの地map』にスポット投稿します。

 『いの里岩』の碑
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 祈り岩
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 駒立岩の近くに造っている「祈り岩」のレプリカ
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磯野禅師の墓

【磯野禅師の墓】
 建久二年(1191)11月20日 磯野禅尼が長尾寺でお参りを済ませ、薬師庵へ帰る途中、井戸川(鴨部川)のほとりで老衰と吹雪で寒さもため倒れ、命を落とした。 69才であった。
 井戸川橋畔に磯野禅尼の小さな墓石であったのを昭和になって再建、立派なものになった。1937年の県道改修工事のときさぬき市昭和の県道10号沿いに移転された。墓石の前に花崗岩の自然石で〈磯野禅尼之碑〉と刻まれた石碑が建っている。
 文は津森明著『義経讃岐を駆ける』などより参照しました。


 静御前の母
 保安四年(1123)のこと、丹生の小磯に庄左衛門という大百姓がありました。この家に、イソという一人娘がありました。生まれつき賢くて瞳の美しい少女でしたので、近所界隈の評判をとりました。
 長承二年(1134)の春、梅一輪、一輪の温かさということ、都へ上がる出船が威勢よく荷役をしています。その少女は子供心に船の中で遊んでいましたが、何時の間にか暖かくなって積荷の菰を背にして、うつらうつらと眠ってしまいました。潮順がよくなったので船頭達は子供が眠っているとも知らず船を出港させてしまったのです。
 暫く時がたって「おや!子供が一人寝ているぞ・・・・」と気がついた頃は、船はもう播磨灘にさしかかっていましたから、船を引き返すわけにもいかず、仕方なく都へ連れて行く事になりました。そして知らぬ他国の港で、荷を下ろしている最中に、その女子は陸に上がって賑やかな町を、あちらこちらと眺めておりますうちに、また船員と離れる事になり、苦労を重ねて京の都にたどり着いたのです。
 そして、一軒の家が目にとまりました。それは綺麗な女の子が出入りしていたからです。近所の人に、あの館はどなた様の館でしょうか?と尋ねますと、「今はときめく芸能指南で、宮中出入りの青柳師匠のお家である」と教えてくれましたので、イソは決心してその屋敷の小門から入って行き、「私は、讃岐の国、大内郡小磯の者ですが、お噂の高い青柳師匠の弟子になりたいと遥々訪ねて参りました。どうか弟子の一人にさせてください」と無理に頼みますと、では住み込みの下女として雇ってあげると許可がでました。風呂焚きでも何でもしますといって、利巧なイソですからこの館で一生懸命に働きました。イソ十二歳の時でした。
 生まれつき利巧で、美しい彼女ですから、師匠の目にとまらぬはずはありません。その翌年には見込まれて内弟子となり名も「磯」と改めて、芸道を励むことになりました。
 その頃、藤原朝臣通憲(信西)という公卿が、」よくこの館に遊びに来ていましたが、磯を眺めて「末頼もしい少女よ」と学問、作法、芸能の一手も教えてくれました。通憲は藤原家隋一の学者で、後白河法皇の寵臣でありました。
 磯は、こうして歌や舞の他、学芸・婦徳の道まで教えられていました。
 久安二年(1146)、二十四歳になった磯は、芸能の格式である「禅師号」を賜り、宮中出入りを許されてから、こ こに「磯野禅師」と名のり、一門を構えるようになりました。
 文は香川県立図書館蔵『おおち夜話』歴史と民話より転載しました。
 写真は、2012年2月20日撮影
 場所はワイワイマップ『源平ゆかりの地・伝説の地map』にスポット投稿します。

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かまとこ地蔵

【かまとこ地蔵】
 <><>かまとこ地蔵は、香川県高松市菅沢(すげさわ)町神村(こうのむね)の新川流域春日川支流葛谷川沿いにあります。
 源平屋島合戦のとき、敗者がこの神村(こうのむね)へも落ちてきた。源氏の兵に追われた平家の武士が炭焼窯に身をひそめて追手の足音が通り過ぎるのを祈った。しかし、源氏の兵は落人の隠れた炭焼窯へ、どんどん土を盛り、蓋をしてしまった。それから、様々な不思議なことが起こった。
 源氏でもない、平氏でもない地元の人達が申し合わせて、お地蔵さんを祀ることにした。炭焼窯のある床にお祀りしたお地蔵さんなので、いつしか「かまとこ地蔵」と呼ばれるようになった。小さな地蔵堂の横に大きな桜の木があった。この木のあるあたりで幾人かの落人が息絶えたという。
 地蔵堂の傍らに石碑が建っている。「南無阿弥陀仏」と刻まれた墓石である。触ってはいけないとされ、貧乏神だという人もある。高松市教育委員会説明板より転載しました。

 写真は2012年7月6日撮影
 場所はワイワイマップ『源平ゆかりの地・伝説の地map』にスポット投稿します。
 アクセス:東植田町葛谷バス停より川沿いに登って行きます。川が道の右側から左に変わる小さな橋の所にあります。尚、道は災害復旧工事をしています。時間待ちがあります。塩江方面からは災害復旧工事で通行できないです。(西植田展望台東屋より少し北側付近)2012年7月6日現在

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 墓石
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 讃岐の伝説・民話(かまとこ地蔵) 北条令子氏著作
 屋島の津から春日川沿いに,一陣の砂けむりがあがった。阿讃の山脈に向かって駆けてゆくのは,屋島の合戦で敗れた平家の軍。それもかなりの数である。源氏の兵が見逃すわけがない。先廻りして待ち伏せていたのが,稗田の植田若狭守の家来たち。激しい争いとなった。
 平家の武将の乗っていた,馬の首を斬り落した。乗っていた高畑某は落馬,追われて斬られた。馬も首のないまま,主の後を追ったが息絶えてしまう。西植田町本村,馬切り藪には馬の首を埋めた塚があり,切り谷と屋号のように呼ばれる家では,高畑某の墓を祀ってある。
 この一軍は,本村のあたりで全滅したのではない。源氏の兵,それも源氏に味方する地元の兵たちに追われながら平家の落人たちは,神村(こうのむね)まで逃げてきた。
 神村は山ぶかいところ,安心はできないが山一つ越えれば或いは逃げきることができるのではないかと
思ったとき隙が生まれた。馬の足音がする,追手が来たのだ。平家の兵は,まだ火を入れていない炭焼窯にかくれた。身を折るようにかがめて,敵が通り過ぎるのを待った。しかし,戦いは無惨だ。源氏の兵は平家の落人が息をころして隠れている炭焼窯を土で蓋してしまった。一瞬のことである。
 その後,さまざまの怪異が起きた。源氏でもない平家でもない地元の人たちが,そこへ地蔵を祀った。西植田神村のかまとこ地蔵がこれである。

仏坂峠

【仏坂(ほとけざか)】
 仏坂(ほとけざか) 香川県高松市西植田町(旧西植田村)・高松市香川町東谷(旧安原村)
 峠に立っている地蔵は美人地蔵(釈迦立像)といわれている。
 
 清盛の愛妾だった「仏御前(ほとけごぜん)」が自分が来たために暇を出された「祇王(ぎおう)」「祇女(ぎにょ)」の姉妹が讃岐に落ちて行ったと聞き、遥々讃岐に来て通った峠だという。
 仏御前の実像は不明な部分も多いが清盛に寵愛されたと伝えられている。京では祇王・祇女は嵯峨野に隠棲したと伝えれれており、仏御前の讃岐入りについては口承のみであるが広く信じられている。
 文は津村明著 義経讃岐を駆けるより転載しました。

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 高松市香川町東谷地区でも人々を路傍で守る地蔵が、人通りの少ない寂しい村境や峠付近に多く鎮座している。仏坂の地蔵は高松市西植田町との境にある。一説によると、都から落ちて来た平家の女官の霊を祀ったものと云う。この地蔵はやがて無常場へ移され、次いで天神公民館横へ移動して祀らて供花の絶え間がない。
 仏坂にも峠の地蔵がないと寂しいと、大正十三年に等身大のお釈迦様の立像が建てられ、平成三年にはお堂が改築された。お盆には両者に盆踊りが奉納されている。
 文は香川県立図書館蔵香川町誌より転載しました。
 天神公民館横には東谷集落より県道43号の仏坂峠手前を右に曲がると地蔵堂と右側には石碑・地神・金毘羅灯籠がある。
 祇王山・専光寺(祇王・祇女ゆかりの寺)=外部BLOG
 http://blogs.yahoo.co.jp/takamaturocky/36245055.html
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 写真は2012年3月1日・6月18日撮影
 場所はワイワイマップ『源平ゆかりの地・伝説の地map』にスポット投稿します。 

鼓ヶ渕

【鼓ヶ渕】
 鼓ヶ渕(つづみがふち)は香川県さぬき市昭和の民家脇に石碑が残っています。
 昭和初期頃ここには、清水の出る泉が渕となり「鼓渕」と呼ばれていた。
 文治四年(1188)三月長尾寺宥意和尚に得度された「静御前」は「源義経」から形見にと贈られた中国伝来の、紫檀の胴、金銀の象眼に三毛猫の皮を張り、音色の優れた名器であった鼓(初音)を俗世を断ち切る証しとして、この渕に投げ捨てた。それから四年後の建久三年静は二四歳の生涯を終わっている。
 その鼓とは重源僧上が唐より持ち帰り、天皇に献上、のちに後白河法皇より平清盛に下賜されたもので平家の家宝であった。屋島の合戦の時、波間に漂っている鼓を伊勢の三郎が見付け義経に差し出したという過去を持っていた。
 文は現地長尾町文化財保護協会(現さぬき市)説明板より転載しました。
 写真は2012年6月11日撮影
 場所はワイワイマップ『源平ゆかりの地・伝説の地map』にスポット投稿します。

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 三木富士(白山)
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