源平合戦で、弁慶が長刀の石突きで井戸を掘っていた時土中から出てきた巨石を、大力で一気にはね上げたところ天 高く飛び約2Km東方の地に落ちたという伝説がある。里人はこれを弁慶の投げ石と呼んでいる。 地主は正月には、しめ縄を飾りお供えをしてこの石を大切に守っている。 高さ約1m、縦横ともに約0.5mの花こう岩である。 平成18年10月10日高松市登録史跡指定 高松市教育委員会説明板などより転載しました。 写真は2012年3月18日、2012年6月4日撮影 場所はワイワイマップ『源平ゆかりの地・伝説の地map』にスポット投稿します。 |
源平ゆかりの地
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源氏方及び平家方のゆかりの地と資料等展示場(博物館)の書庫です。
源平合戦の時、この付近は海が近く水が悪かったので源氏の兵は炊事をするのに弁慶が長刀で掘った井戸の所から綺麗な水が湧き、その水を使ったと伝えられている井戸です。 『三代物語』に『武蔵坊弁慶屓尖刀鐓むさしぼうべんけいなぎなたのいしずき)を以って、井戸を穿つ、しばらくして清泉湧く。云々』と記され弁慶の武勇とともに、海辺の陣にあって炊事用水に苦慮した様子を伝えてい。 文は、源平屋島合戦八百年際準備実行委員会説明板より転載しました。 写真は、2012年5月21日撮影 場所は、ワイワイマップに『源平ゆかりの地・伝説の地map』にスポット投稿します。(変電所の道を挟んで東側) |
源平合戦の時、義経以下の源氏軍が瓜生ヶ丘に進出した。(当時此の辺りは海岸に近い所であった。) 弁慶が兵のため炊事をするのに俎(まないた)がなかったので石地蔵の背で野菜を料理して汁を作り義経以下にさしあげたといいます。 其の時のことを後世の人は「弁慶がこしらえし菜は武蔵坊」と発句をよむとすかさず弁慶は「それを知りつつ九郎判官」と詠んだといわれ、お地蔵さんの背には、刀傷があるとまでいわれています。 文は、現地説明板より転載しました。 写真は、2012年5月21日撮影 場所はワイワイマップ『源平ゆかりの地・伝説の地map』にスポット投稿します。 |
寿永四年(1185)二月平家追討の命をうけた九郎判官義経は、源氏の精鋭を率いて阿波の勝浦より大坂峠を越えて高松(現高松町)の里に入り、屋島を望むこの地で人馬を整え、平家の陣を攻めたと伝えられています。 其の時の大将義経がこの松に鞍をかけ休息したというのでこの名が残っています。高松市・高松観光協会 説明板より 写真は2012年5月19日撮影 場所はワイワイマップ『源平ゆかりの地map』にスポット投稿します。 旧道説明板より露地を入る。
地蔵堂 地蔵 井戸と手洗盥 |
継信は、寿永四年(1185)二月の源平屋島合戦のとき、平家の武将「能登守教経(のとのかみのりつね)」の強弓により、大将「義経」の一命危ういとみて、義経の矢面に立ち、身代わりとなって討死しました。 この継信の忠死を広く世人に知らしめるために寛永二十年(1643)初代高松藩主「松平頼重」公が、合戦当時に義経が丁重に葬ったあとを受けて、屋島寺へ続くこの遍路道の傍に建立したものです。(墓碑) 当時源平の将兵の墓は草むらに覆われてわからなかったがこの顕彰で有名になった。 お墓は、王基(おはか)という所に愛馬「太夫黒(たゆうぐろ)」の墓共にあります。 http://blogs.yahoo.co.jp/takamaturocky/28541837.html ←参照 文は現地高松市観光協会説明板&津森明著『義経讃岐を駆ける』より転載しました。 写真は2012年2月27日撮影 場所はワイワイマップ(源平ゆかりの地map)にスポット投稿します。 |



