古川の西岸にあり、静御前にゆかりのある塚だといわれている。静氏所有地にあった塚で、石碑の右に五輪塔を置き、左には浮かし彫になった石仏が並んでいる。それには「静の墓 文化未八年 善四郎」とある。昔はシャシャブ(茱)の木に埋まっていたそうであるが、昭和初期に現在のように並べたらしい。ブロックのお堂を造ったのは戦後の事である。 昭和初期の台風の時、石仏が田の中へ倒れ込んだ。『お地蔵さんたのみます』とお願すると二人で軽く持ち運べたそうである。縁起を記した由緒書きのようなものがあったが、今はどうなっているか?。 文は、高松市香南文庫蔵香南町史より転載しました。 香南町池西(旧池西村)静地区の静氏が管理していたのも面白い。 写真は2012年3月1日撮影 場所はワイワイマップ『源平ゆかりの地map』にスポット投稿します。 アクセス:高松市香南町の高根(たこね)通りの高根通り交差点(感知信号)を西へ道の北側に冷凍庫会社西側に車一台が通れる道を南へ30〜40m、南向きのブロックで出来ているお堂です。 |
源平ゆかりの地
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源氏方及び平家方のゆかりの地と資料等展示場(博物館)の書庫です。
射落畠は香川県高松市牟礼町八栗口バス停前にあります。 寿永四年(1185)二月十九日源平合戦の際、源氏の武将「佐藤継信」が大将「義経」の身代わりとなり、平家の雄将「能登守教経」の強弓に射落とされた所です。往時は海岸だったという。遺体は近くの洲崎寺の戸板に乗せて運ばれ、志度寺の住職「覚阿上人」によって引導を渡され回向されたという。墓は牟礼町王基に建てられた。継信は、義経の言い残すことはないかの質問に『思いなくて候ふべき。まず奥州に候ふ老母のこと・・・』と述べ、主君義経の栄達を見ずに死ぬのは寂しいと言ったという。 以上の文は現地説明板と津森明著『義経讃岐を駆ける』より転載しました。 この地は源義経の四天王の一人佐藤継信戦死の場所である。継信は鎮守府将軍藤原秀郷の後裔にして藤原秀衝に従う。継信は若くして智略兵法に通じ、豪勇の名を知られる。 源義経陸奥に来て秀衝の批護をうけ、後 頼朝挙兵を授けるため都の上がるに際し、父の命により継信、忠信の兄弟もこれに従う。連戦して平家を追い屋島檀ノ浦にいたり、敵将平教経の挑戦を受け、義経の身代わりとして戦死、時に年二十八歳 継信は、みちのくいで湯の里飯坂大鳥城の出身である。以下略 上記の文は現地石碑より転載しました。 写真は2012年2月27日撮影 場所はワイワイマップ「源平ゆかりの地マップ」にスポット投稿します。 |
宝物館には、屋島寺に伝わる数多くの寺宝の他に、源平合戦に関する宝物などを多数展示。 那須与一の子孫が寄進した「源氏の白旗」、「源氏の勝臼」、土佐光起筆「屋島合戦屏風」、「源平盛衰記絵巻」狩野深信筆「源平合戦絵図・那須与一の扇の的」などの絵画が所像されており、屋島寺と屋島の歴史がうかがえる。 有料500円 9:00〜17:00 無休 文は屋島寺パンフレットより転載しました。 屋島寺本尊、木造千手観音坐像=重要文化財(彫刻)もここに収蔵している。昭和30年2月2日指定 雪の庭 書院の裏庭に白い凝灰岩が露出していて、四季を通じてさながら雪が降ったように見えるので『雪の庭』と呼ばれている。屋島山の上は安山岩ばかりなのに、この庭だけに凝灰岩がでているのも珍しく、夏は緑樹に秋は紅葉に映えて誠に美しい。 梵鐘(釣鐘)=貞応2年(1223)の銘がある。昭和42年6月15日指定 土地の人はこの鐘を「平家供養の鐘」と呼んでいる。 文は屋島寺パンフレットより転載しました。 見学希望は宝物館窓口にてお願いすると案内してもらえる。 写真は2012年1月9日撮影 場所はワイワイマップの『源平ゆかりの地map』にスポット投稿します。 屋島寺宝物館
館内 雪の庭 |
屋島寺伽藍草創のおり空海が「遍照金剛、三密行所、当都率天、内院管門」と書き、宝珠と共に納め周囲を池としました。ところが竜神が宝珠を奪いに来ると伝えられ瑠璃宝の池の名があります。 また、源平合戦のとき檀ノ浦で戦った源氏の武士たちが血刀を洗ったため、池の水が赤くなり「血の池」とも呼ばれるようになりました。休止になった屋島ケーブルカーの山頂駅から下る踏みわけ道脇には将兵のものと思われる石佛が並んでいて戦いの熾烈さを物語っている。屋島寺から八栗寺に向かう遍路道にも石仏が多数ある。 以上の文は、現地説明板&津森明著「義経讃岐を駆ける」から抜粋しました。 写真は、2012年1月9日撮影 場所は、ワイワイマップ(源平ゆかりの地map)にスポット投稿します。 八栗寺への遍路道 |
源平合戦(1185)のとき、源氏の勇将「佐藤継信」は、大将「源義経」の身代わりとして「平能登守教経(のりつね)」の強弓に倒れました。そのとき教経に仕えていた「菊王丸」は、継信に駆け寄り首を切り落とそうとしましたが、そうさせまいとする継信の弟「佐藤忠信」の弓によって倒されました。菊王丸十七歳の若武者であった。 菊王丸は、教経に抱きかかえられ、自らの軍船に帰りましたが、息をひきとりました。教経は、菊王丸をあわれんで此の地に葬ったと伝えられています。 菊王丸=始め平通盛様に仕えていた童でしたが、一ノ谷合戦での通盛の死後は、その弟平教経に仕えたといわれており。一説には通盛や教経の息子であるという説もある。 文はWikipedia&津森 明 著『義経讃岐を駆ける』&現地説明板などより参照・転載しました。
場所はワイワイマップ(源平ゆかりの地map)にスポット投稿します。 |



