清盛没後、平家は一の谷の合戦で破れ、平家に味方する西国に逃げ、讃岐の屋島で海上からの襲撃に陣を構えるが、源氏は海上からでなく平家の背後の陸地からの奇襲に出た。屋島壇ノ浦の合戦の火ぶたをきった。源氏の勝利に終わるのですが、ここから義経の悲劇も始まるのです。 讃岐(香川県)にも義経・佐藤継信・那須与一・弁慶・静御前・磯野禅師・有盛・安徳天皇などの伝説(エピソード)が生まれています。 源氏軍 源義経・佐藤継信(戦死)・佐藤忠信・那須与一・畠山重忠・弁慶・鎌田光政・三穂屋十郎・伊勢三郎義盛・大胡小橋太など 平家軍 能登守教経・菊王丸(戦死)・悪七兵景清・鞆六郎・越中次郎兵衛盛嗣・海老次郎盛方など 讃岐は「静御前」の故郷といわれ、実母「磯野禅尼(師)」の生地(讃岐丹生小磯)でもあるといわれる。 書庫《源平ゆかり地》には源氏ゆかりの地と平家のゆかりの地と静御前母子のゆかりの地を書庫に納めます。 文はWikipedia&津森 明 著『義経讃岐を駆ける』&現地説明板などより参照・転載しました。 《談古嶺の由来》 屋島山上三大展望台の一つ。明治三十年「村雲尼」が登山の際、源平古戦場の史談を聞き源氏の武士や平家の公達達を偲び『談古嶺』と命名した。 眼下には屋島壇ノ浦・安徳天皇行宮跡・源平合戦の華「那須与一」の扇の的・駒立て岩に祈り岩・義経の弓流しの跡・佐藤継信の墓・菊王丸の墓。また対岸には五剣山がそびえ、平家が軍船を隠した「舟隠し湾」などがあります。 後藤兵衛父子、那須与一ら三十余騎は浅瀬の赤牛崎から屋島に上陸、安徳天皇の行宮へ向かい平家内陣をことごとく焼き払ったのです。 同時に義経本隊は、屋島の南、古高松のあたり一帯の民家に火を放ちながら平家の総門を占領しするのです。 屋島談古嶺より 五剣山右が源氏が峰:源義経がこの山に登り、平家の陣を眺めて戦略を立てたという「義経の腰掛け石」があります。 手前の民家や対岸の森が見える辺りまで海であった。 左の半島の向こう側が舟隠し湾 歩きへんろ道 降り切った所に安徳神社がある。 五剣山左が庵治石大丁場 ワイワイマップの見方
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源平ゆかりの地
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源氏方及び平家方のゆかりの地と資料等展示場(博物館)の書庫です。



