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1945年8月9日午前11時2分に2回目の原爆は長崎に投下された
戦争を終結させる為に原爆投下は必要だったとアメリカは言っているようですが、 6日の広島の原爆投下からわずかに3日後に長崎に原爆投下ですからね。 日本も被害の現状調査に2日程度はかかるでしょう。 降伏するかどうかの閣議を開いて・・・・ 降伏するとアメリカに通告するには、なんやかんやで5日は必要でしょうね。 それが3日で2発目の原爆投下ですから「日本が降伏する前にやってしまえ!」 だったことは明白だと思います。 広島のウラン型原爆と長崎のプルトニウム型原爆の実験を兼ねていた のは間違いないと思うのです。まあ、戦争ですから、 「負け犬の遠吠え」のような泣き言を言ってもしかたないとも思うのです。 今も当時も原爆を落としてはいけない。という国際法はないし・・・・・ 問題は今後です。 日本は唯一の被爆国として原爆の恐ろしさを訴え、 地球から原爆をなくす努力をする先頭にたつべきだと思います。 火球から放出された大量の熱線は、爆発から3秒ほどの短い時間に、異常な高熱で地上を包んだ。 地表面の温度は爆心地で3,000度から4,000度、 1キロメートル離れたところでおよそ1,800度、 1.5キロメートル付近で600度以上 に達したものと推定される。これが大規模な火災を引き起こした。 熱線が届いた距離は浦上地区の地形と関係するので一様ではない。 しかし、その影響は遠くまでおよんで、爆心地からおよそ4キロメートル離れたところでも、 屋外にいた人は熱傷を負うほどだった。 プルトニウム原爆プルトニウム239は自然界には殆んど存在しない重金属であるが、
原子炉(燃料転換率の高い原子炉が望ましい)内でウラン238が中性子を吸収することで
副産物として作られるため、ウランのような大量の電力を消費する濃縮過程を必要とせず、
原子炉で電力が得られるという利点もある。
また臨界量が5kgとウラン235に比べてかなり少量で済む利点がある。
プルトニウムは放射能が強いため取り扱いは難しく、生産に黒鉛炉または重水炉、
再処理工場の建設費がかかるが、副産物として電力が得られ、
1発あたり生産コストがトータルではウラン原爆より安価に済み、
核兵器量産に向くため、現在は5大国と北朝鮮の核兵器生産はプルトニウムが主体である。
しかし通常の工程で生成されるプルトニウムには、プルトニウム240が兵器として使用できる
許容量を超えるレベルで含まれており、このプルトニウム240は高い確率で自発核分裂を起こす
性質を持っている。このため、砲身方式ではプルトニウム全体が超臨界に達する前に
一部で自発核分裂が起きて爆弾が四散してしまうなど、効率の良い爆発を起こすことが難しい。
したがって密度の低いプルトニウムを球状にし、爆縮によって密度を高め
核分裂連鎖反応を開始させる爆縮方式が用いられる。
また核分裂連鎖反応が開始されてからプルトニウム239が飛散して終了するまでの
反応効率が砲身方式よりも高いというメリットもある。
長崎に投下された原子爆弾にはこのタイプが用いられた。
なお、爆縮方式を用いる場合でもプルトニウム240の含有量が7%を超えると
過早爆発の原因になり、核兵器製造に向かない。日本の原子力発電で使われている 軽水炉の使用済み燃料抽出プルトニウムはプルトニウム240を22-30%前後含有し、
プルトニウム240を分離しないと核兵器に使えない。
核兵器製造にはプルトニウム240含有量が7%以下の兵器用プルトニウムが得られる黒鉛炉や カナダ型重水炉もしくは高速増殖炉(日本には常陽ともんじゅがある。)を使うのが普通で、
北朝鮮の原爆計画の主力であるプルトニウム計画は黒鉛炉、
イラン原爆計画において傍流であるプルトニウム原爆計画では重水炉が使用されている。
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★伝えたいこと★
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Barefoot Gen, HIroshima Destroyed
昭和20年8月6日、リトルボーイを積んだB29がテニアン島を飛び立った。 資料館に保存された時計は8時15分を指して止まっている。 当時は会社の始業時刻は8時、人々が働きだしたばかりの時刻だった。 原子爆弾は原爆ドーム近くの上空550mで炸裂した。 市街地は一部の鉄筋コンクリートの外側だけを残して、木造家屋はすべて全壊、全焼した。 当時、日本で7番目の大都市、広島の人と物のすべてが壊滅した。 原爆は、強烈な熱線と爆風と放射能によって、恐るべき被害をもたらしたのだ。 原爆は、炸裂直後直径280mの火の玉となり、そのため爆心地では、爆発から3秒間、 鉄を溶かす温度を遥かに超える4000度前後に達したものと推定されている。 瓦はいずれも表面が溶け、酸素などの気体が抜け出て泡状になった。 一瞬の閃光は、さまざまな物の表面に遮蔽物の影をくっきりと残した。 爆心地から280mの住友銀行ビルの、花崗岩でできた石段の上に影がある。 人が座っていたため直射を受けなかった部分が影となって残った。 人の影である。この石段に焼き付けられた人の影は、年々薄くなっている。 この影と同じように 日本の一番悲惨な瞬間を忘れないでほし。 唯一被爆した国なのだから いままさに大震災の影響で同じようなことが怒っている事も忘れないでほしい。 皆さんも きょうと9日は黙とうをささげてください。 |

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皆さんはこの写真を見てどんな気持ちになりますか?
私かなり有名な写真です 日本国中で戦争による悲劇が沢山あったのです
このような少年でも立派な日本男児であった
この写真はそんな思いをひしひしと感じさせます。 http://blog-imgs-34-origin.fc2.com/p/a/s/paso29/blank1.gif この写真を撮ったアメリカ人カメラマンのジョー・オダネルは、軍の公式カメラマンとして、原爆投下の1ヵ月後の長崎に入った。そこで目にした惨状を、「日本人を撮るな」という軍の命令に背いて、密かに持ち込んだ自分のカメラで30枚の写真に記録しアメリカに持ち帰った。しかし43年間そのネガをトランクに入れたまま封印。それを被爆者の写真を貼った反核運動の彫像を見たことをきっかけに開くことになる。・・・。昨年亡くなったオダネルの遺品から見つかった(カセットテープの)肉声をもとに、NHKの番組は伝える・・・・ ナレーター: 今から66年前、長崎の火葬場で撮影された一人の少年。 背負っているのは原爆で死んだ弟です。弟を焼く順番を待ちながら、悲しみに耐える 少年。歯を食いしばるその唇には、血が滲んでいたといいます。 写真を撮影したのはジョー・オダネル軍曹。 長崎を南北に貫く浦上川。そのほとりに下りていったオダネルは、生涯忘れられない光景と出会います。そこは火葬場でした。焼け野原を一人の少年が歩いてきました。 少年は、背中に小さな弟の亡骸(なきがら)を背負っていました。 オダネル: 『一人の少年が現れた。背中に幼い弟を背負っているようだった。 火葬場にいた2人の男が弟を背中から外し、そっと火の中に置いた。 彼は黙って立ち続けていた。まるで敬礼をしているかのように。 炎が彼のほおを赤く染めいてた。彼は泣かず、ただ唇をかみしめていた。 そして何も言わず、立ち去っていった…』 帰国後、オダネルは長崎での記憶に精神をさいなまれます。 オダネル: 『被爆者たちの体をうごめくウジ、助けを求める声、鼻をつく異臭。私は長崎での光景を思い出すまいとした。しかしその光景は頭から離れず、私をさいなみ続けた。 あの時のアメリカの決断は正しかったと言えるのだろうか。 眠ろうとしても眠れないのだ。悪夢が終わらないのだ。写真を見たくなかった。 見ると長崎の悪夢がよみがえってしまう。』 苦しみから逃れるため、オダネルは全ての写真をトランクに封印しました。 屋根裏部屋に隠し、以後43年間開ける事はありませんでした。 日本に原爆を落としたことをどう思っているのか。オダネルは一度だけ、 自分の思いをトルーマン大統領にぶつけました。それは1950年の出来事でした。 オダネル: 『大統領、私は長崎と広島で写真を撮っていました。 あなたは日本に原爆を落としたことを後悔したことはありませんか?』 彼は動揺し顔を真っ赤にしてこう言った。 『当然それはある。しかし原爆投下じゃ私のアイデアではない。 私は前の大統領から単に引き継いだだけだ。』 1989年オダネルの運命が変わります。オダネルは偶然立ち寄った修道院で、そこに飾られていた(十字架を背にした)反核運動の彫像に出会います。 その全身には被爆者の写真が貼られていました。 オダネル: 『私は彫像を見て衝撃を受けた。罪のない被爆者たちの写真が彫像の全身にはられていたのだ。それを見たときの気持ちは言い表せない。長崎の記憶がよみがえりとても苦しくなった。しかし、私は何かしなければと痛烈に感じた。 まさに啓示だった。自分も撮影した真実を伝えなければならないと。』 オダネルは屋根裏部屋に行き、43年ぶりにトランクを開けました… (1990年、アメリカの各地で写真展を試みるが、原爆の写真を受け入れる施設はない。本にしたくても出版社から断られる。原爆投下は誤りだと、母国アメリカを非難する声は結局同胞には届かず、その行動を理解できない妻は離婚。トランクを開けたときから家庭は崩壊した。孤立を深めながらも、それでもジョー・オダネルは戦争非難活動を続ける。) オダネル: 『誤解しないでほしい。私はアメリカ人だ。アメリカを愛しているし国のために戦った。しかし母国の過ちを、なかったことにできなかった。 退役軍人は私のことを理解してくれないだろう。私は死の灰の上を歩きこの目で惨状を見たのだ。確かに日本軍は中国や韓国に対してひどいことをした。 しかしあの小さな子どもたちが何かしただろうか。 戦争に勝つために、本当に彼らの母親を殺す必要があっただろうか。 1945年、あの原爆はやはり間違っていた。 それは100年たっても間違いであり続ける。絶対に間違っている。絶対に。 歴史は繰り返すというが、繰り返してはいけない歴史もあるはずだ。』 オダネルは昨年(2007年)8月、85歳で(原爆病のため)息を引き取った。 その日はくしくも長崎原爆と同じ8月9日だった。 オダネル: 『アメリカ人が好むと好まざるとに関わらず、8月6日と9日は毎年やってくる。 嫌がらせの手紙や投稿がどんどん集まってくる。 「お前は裏切り者だ」「アメリカが嫌なら日本へ行け」と。 ある時、娘が教えてくれた。「お父さんの活動に味方する投稿が一つだけあるよ」と。その投稿は私への批判の声に反論してくれていたのだ。 「オダネルに批判する人に言いたい… 原爆とは何だったのか。図書館に行って歴史を勉強してから批判しろ」 名前を見るとそれは私の息子だった。 そして今、息子がその遺志を継いで活動している…』 この少年の眼ときつく結ばれた唇から、悲しみの深さが伝わってきます。 ひょっとしたら、両親も戦火で亡くなり残されたたった一人の肉親だったのかも 知れません… 悲しみを必死にこらえる少年の表情にあなたは何を感じますか。 写真展でこの写真を見たアメリカ人女性は、涙と嗚咽が止まらなかったらしい… 日本人でこの写真を見て何も感じない人がいるだろうか… 幼い人生で最大の悲劇にありながら、この凛とした風格はなんとしたことでしょう。 「わずか六十数年前の日本では、この様に年端もいかぬ少年ですら 立派な日本男児であった」ことを感じさせます… |
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俺より先に死ぬなよ
コクリコ坂からの一言ですが・・・ このシーンでいろんな事を思い いろんな事を考えました。 (もちろんこのシーンでわたしは泣いてしまいましたが) 現実に戦争に向かった人々はいろんな事を思って戦った事でしょう。。。 もう帰ってこれないと覚悟して 自分の存在をなかったもとする為に 好きな人にも 気持ちを押し殺したかも知れません。 終戦を迎えても戦いがいまだに終わらない人 いまだに苦しんでいる人もいると思います。 戦争で生き残った人も 生き残った事を恥ずかしいと思っていた時代。 どんなに使いことでしょう。。。 みんな誰かの為に生き 誰かの為に戦った それは敵も味方も同じ事です。 みんなに家族がいるのです。 守る人がいたから 戦ったのでしょう 残された人も 現実を受け止めて生きないくてはいけない 人生が大きく狂った人もいた事でしょう。 今回も震災で同じ事が言えますね これは自然の怒りだったのかもしれないけど。。。。 その自然のいたずらのせいで大切なものを気付く事ができたのかも 生き残った者は後世に何かを残そうとし 生きているいまを大切にしなくては。 きっと生きている事には意味があり そしてその事に指名があると思う。。。 亡くなってしまった人が伝えられなかった事 亡くなってしまった人ができなかった事を 私たちがバトンとして受け取り そして生きていかなくてはいけない。 そう夕陽を見ていたら思いました。 どんなに辛くても どんなに孤独でも。。。。 決して自分は一人ではないと思う。 決して あきらめてはいけないと言い聞かせて 第一歩を進みましょう だって私たちはまだ笑う事が出来るんですから |
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いまNHKでやってますが
みなさんは 犬も戦争に行ったって話、知ってますか? 「軍犬」の話は凄く切ないですね。。。。 犬にも「赤紙」が来たんですよ。 「祝 出征アルマ号」と書かれた旗の傍に、日の丸の大きな胸当てをつけた シェパードが雄々しく鎮座している写真をみた時は凄く涙が出ました。 当時の日本は使えるものはなんでも使えってことでしょうね・・・ 「第二次大戦下の日本では、およそ10万頭ともいわれる犬が、殺人兵器として利用されていた。 人間と共に戦場に出征する『軍犬』と呼ばれた犬たちである。 軍犬たちは弾丸飛び交う戦地を果敢に駆け抜け、時には前線経弾薬を運び、時には伝令役をつとめた。 だが、その多くは地雷を踏んだり、狙撃手の標的となり、儚く命を散らした。 大好きな主人から遠く離れた場所で、軍犬たちは一体なにを思いながら永い眠りについていったのか。 消え去ろうとする過去の事実をもとに、犬と人間との心温まる関係を描いた物語りです」 アルマの飼い主は小さい時から大の犬好きで、犬の訓練がとても上手な朝比奈太一青年。 前の飼い主の国民学校4年生の健太クンと、1年生のチッチこと千津ちゃん。 そこに商店街の人たちや、太一が密かに憧れている高橋先生などが絡みながら、 戦争に向かっていく日本の姿が描かれています。 動物が人の心をいやしてくれるのは いまも昔も変わらないのです 戦地での動物がいるだけでも救われるという心は戦地の人の助けになったことは 間違いありません。 戦争から65年ですから、いろんな番組が登場すると思うのですがこういう角度か 戦争のむごさをしって2度とこんなことが起こらないようにしてほしいものです。 |

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