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邪馬台国・歴史

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お犬様の歴史

 
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☆画像と記事とは関連がございません。
   
ヒネ○オヤジ物語。
オヤジは日本に於ける、こういうことがあったのだ〜〜と云う、“犬の歴史”なるものをテレビで掻い摘んで学んだ。
大雑把に言うとこのようなことなのだ。
     
歴史を遡り、日本列島が縄文時代のころ、縄文人が集落を作り、狩猟を専らの生業にしていた。それでその狩猟の供として犬が大きな役割を果たしていた。この時代の犬は専ら狩猟犬。狩猟犬が居ないと生業が成立しなかった。
ですから狩猟犬は大変大事にされていたのです。その尤もな証拠に縄文人の亡骸と一緒に、しかも狩猟犬を懐に抱いた姿で墓から出てくるのです。犬が大事にだれていた何よりの証なのです。
    
時代が移り、弥生人(渡来人)が大陸より日本列島に入ってくると縄文人を征圧し、弥生時代へと移り変った。農耕を主体とした弥生人の時代になりますと農作物を貯蔵する倉庫が立ち並ぶようになった。犬はそれを荒らす鼠などの害獣を駆除する役割を果たした。犬が鼠を捕獲するのである。(オヤジはその役割は猫だと信じていましたが)(笑)
それからこの時代、犬は食料としても利用されていたようで、言い換えると今で云います牛・豚や鶏ような家畜としても飼われていたようだ。貝塚(食べ殻の捨て場)には犬の頭蓋骨がまとまった形で出てきていそうだ。弥生時代、犬は食べられていたのですね〜〜。可哀相。
    
更に時代が下り室町時代に入ると、犬は矢を射る練習台の的に使われることもあったようです。残酷。(涙)
そう云う事柄が描かれた巻物があるとか。
   
その後と云いますと(ここから先は冗談ですけれど?おや!冗談ではない!!)犬はペットとして、その中にはそれ以上に地位をしっかり上げた御様子です。(汗)

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前回の続きです。

水行とはまさしく船で海を行くのだと素直に解釈するとして。

その前に次のことを確認しておきます。
末蘆国からも方位と距離が出ていますから、それに従ってゆきますと末蘆国から東南へ陸行500里が伊都国、伊都国から東南へ陸行100里が奴国、そして奴国から東へ陸行100里で不弥国へ行き着きます。
不弥国は私の解釈では有明海に面したところにある国ではないだろうかと思います。

と言うのは、はっきり方位が示されているからです。昔の人でも、太陽が東から昇り西へ沈む。どちらが南でどちらが北かこれは間違いようがありません。今の九州の地図にこのルートを当てはめても大きなずれは無いものと思われます。

今、大方固まっている説として、伊都国が福岡の前原あたり、それに続いて奴国が福岡市あたりと唱えられているが、果たしてそうなのだろうかと私は疑問に思っている。
それは方位がまったく当てはまらないからです。末蘆国から東へと書いてあったならその通りでしょうが東南へと書いてあります。45度方位が狂います。この差は大きいと思います。これを誤差の範囲と言うには大きすぎます。どうして東と示さなかったのでしょうか?東南の方位だったからです。

それから疑問に思うのが、奴国が福岡だとしたら一支国(現在の壱岐)から直接船で海を渡って来た方が早いと思われます。しかも陸路で末蘆国から伊都国を経由して奴国へ来るのは如何考えても合理的では無い。またそのルートを辿ったとしても船で水行した方が陸行より早く末蘆国から奴国まで行けると思うのですが。

ですから不弥国は魏志倭人伝の伝える方位と距離から考えると有明海沿岸のどこかに位置する国ではなかったでしょうか。これが自然な解釈ではなかろうか。
奴国と不弥国は共に有明海側にあった国であると思います。
伊都国は末蘆国と有明海側にある奴国のルートを結ぶ間のどこかに存在すると言うことになります。
吉野ヶ里遺跡が近年クローズアップされましたが、吉野ヶ里が奴国か、又は不弥国であるとは言えないにしても関連があるのではと思われます。

今回はここまで。
次葉に続く。

邪馬台国は何処(2)

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邪馬台国は何処?

邪馬台国を比定するにあたって幾つかの文献を紐解かなければならないでしょう。その第一に挙げられるのが『魏志倭人伝』ではないでしょうか。

私は考古学者でもないのですが、一般人の興味を持つ者の一人として、これを自分なりの解釈をここに記しておくことにした。学者さんのように細かいことまでは分析しませんが、大まかな筋として捉えたものをと考えています。

魏志倭人伝を如何解くか。
魏志倭人伝には邪馬台国の生活や文化などもろもろのことが結構細かく記されている。それにもかかわらす、邪馬台国の位置が不明瞭に記されていると私は思っている。ここに着目する点があろうかと思われる。

倭の女王卑弥呼は邪馬台国の本当の場所を魏国に伝えたとしたら、魏国に攻め滅ぼされるかもしれないと恐れを抱いたのではないでしょうか。ですから正確な位置は意図的に伝えなかったのではないかと言う節がある。

邪馬台国は魏国からはるかに遠くにあって、『攻めて行くには大変な労力と財力がかかる』と思わせたかったのではないでしょうか。ですから魏志倭人伝の記述での邪馬台国の比定は難しいものがあると最初に言っておきたい。
素直に解釈しても本当の邪馬台国には辿りつかないでしょう。それでも、それらの情報がまったく嘘であるとは言い難く、解釈を工夫すればそれは大事なヒントにはなるのではないかとは思います。

位置の説明がまったくでたらめであったならば、後でそれが魏国に分かれば大変なことになることは承知していたと思う。ですから回り道をさせて遥か遠くにあるがごときに細工したのではないかと解釈します。


帯方郡の使いは邪馬台国まで行ったことが無く、途中まで、実際に行った地名には方角と距離『里』で表示している。しかし、それから先の部分は倭人が日数で答えているのが面白いではないですか。しかも、水行20日とか『船?』で行くように記してあります。これがまた推測し辛い。季節や気象条件、諸々で、計算すると幾通りもの距離になってしまう。しかし、一番怪しいのが方角ではないでしょうか。これら諸々は知恵を使っているなと感心します。水行とはごまかすには都合が良いではないですか。

つづく

卑弥呼

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 卑弥呼が統治していた国、邪馬台国、日本のどこかに必ずある。どうして探し当てる事が出来ないのか?不思議である。そう思いませんか。不思議でなりません。私が一番疑問に思うところです。

 誰か意図があり、覆い隠しているのではないかとまで、ひねくって考えるのは私だけでしょうか。邪馬台国が存在したのは歴史上間違いないことであるのだが、場所がはっきり示せないのが珍しいことである。古代史ですから、資料が少なく、行き詰まることとは思います。私が何とかしたいものです。

 畿内説と九州説と大別して二つに分かれますが、それぞれに御最もと、論を重ねて今日に至っておりますが、決定的なものがありません。それは返して言うなれば、どちらにも存在し得無いのではなかろうかと強引ではありますがそう言えられるのではないでしょうか。

 これだけ探しても両説に明確なものがありません。これは不思議と言うほかありません。何度も重ねて言いますが両説には決定打がありません。然るに、どちらにも存在しないと考えて見ては如何でしょうか。

 強引ではありますが、この両説を消去した残りのところに期待が持てると言うものです。私の言っていること無理が有りますでしょうか?

 私の意見では九州と畿内を挟んだ中間の位置にあるのではと申したいのです。

 今回ここまで。

ひょんな興味

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 私が歴史に興味を持つなど全く考えられなかったことです。

 私は歴史に疎く、中学・高校と苦手としていました。

 科学の分野。メカニック・電子工学など、おおいに興味を持つ者です。

 理科系の頭です、自分は。

 それが如何いう訳か30代前半から歴史に脚を踏み込んでしまうことになりました。

 歴史は古代から近代まで幅は広いですが、私が興味を抱きだしたのは、自分のルーツ

 探しからでした。

 それが発展して人類のルーツへ。

 人類はサルから進化したのだろうか?

 はたまた、宇宙人の落とし子なのか?真剣に考えています。

 そして欲張って、日本人のルーツは?(日本は多民族国家であることがわかった。)

 謎の多い卑弥呼とは?邪馬台国は何処に?

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 昨年、NHKの大河ドラマで篤姫が放送されて面白く見させていただき、幕末から明治にかけての時代を駆け抜けた人達、歴史を作った人達のことを学びました。

 また、今年は天地人で樋口兼続の生涯を通して、『戦国時代に生き抜いた人々の考え方とは』・『名参謀とは』を学ぼうと自分は考えています。

 風呂敷が広がってしまいましたが、邪馬台国探しがメインにしております。

 ですが、時流で、時代に関係なく、話題性と言いますか、旬で感じるものをストレートに書き綴ることが多いかもしれません。

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