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はじめましての投稿になります。
設置してから大分経っているのですが、実はいくつもblogを持っていて、敢えてyahoo!blogをする必然性を感じなかったがためにこちらには何も投稿してこなかったのですが、メインで使っていますAmebloは茶道に寄りすぎてしまったので、こちらのblogは茶道に限定されない人文的なblogにしようと思います。 最初の記事として相応しいのは「習心帰大道」の解説かな?と思います。 これは、私が綴っているThumblrやAmeblo、Websiteなどの総てのタイトルとしている禅語です。 元の禅語は「無心帰大道(むしんだいどうにきす)」で、替字という贈り相手に相応しい意味にする御坊の遊び心といいましょうか。 この禅語は、大日本茶道学会の山田仙秀先生より、教授披露(茶名披露)の席においてお祝いにいただいたものです。仙秀先生は禅語に造詣が深く、ご自身で後進のために禅語の講義をなさったり、「茶を愉しむ」ことをお教えになさっておいでで、点前を一度拝見させていただきましたが、大変枯れたお点前で、尊敬する方の一人です。 さて、こちらの禅語はどういう意味でしょうか。 この言葉は、『古尊宿語録』巻四十五にある 仙學迷多説。當依柱史評。無心歸大道。有得失長生。物我同真宰。親踈豈可名。良哉衆妙本。一一在忘情。 から採られています。 読み下しは「無心大道に帰す」「無心なれば大道に帰す」「無心にして大道に帰す」などといくつかあります。 「無心とはもちろん空白状態のことではない。あれこれ作為したり選り好みしたり、あるいは悟ってやろうなどという計らいを捨てることである。大道とは菩薩、悟りのことであり、茶道の奥義と考えてもよい。平常心の境涯に徹すれば自ずから開けてくる。(平成5年淡交 増刊号より)」 というような解説もあるそうです。 無心とは「純粋」と置き換えてもいいかもしれません。つまり「何も考えず」ではなく「純粋な気持ちを持つ」ことです。仏法の中では「煩悩即菩提」という言葉があり、これは「欲望がなければ悟りを得ることはできない」という意味で、この欲望とは「求める心」であり、一般的に言う欲望ではありません。 これを一般的な言葉に置き換えると「欲望を純化せよ」ということになりましょうか。 つまり、「希求心を持っていれば、自然と大道(悟り・奥義)に辿りつく」という意味です。 仏法は、同じことを様々な言葉で言い換えていますが、円教ですから実は同じことを言っていることが多いのですけれども、ここにもそれが表れています。 煩悩即菩提でも、無心帰大道でも、実は同じ意味になります。 ただし、人の感応する言葉は違いますから、教えを授ける師によって選ぶ言葉はまた違ったものになる訳ですね。 さて、これを「無心」から「習心」に変えるとどうなりますでしょうか。 これは、恐らく最初に書いていただいた方がやはり稽古事をしている方だったのでしょう。だからこそ、無心よりも解りやすい「習心」という言葉になさったのではないかと思います。 習という字は、鳥が羽ばたくために、なんどもなんども同じ動作を繰り返すことを意味する会意文字で、茶道における稽古にあたります。つまり「稽古に励む心があれば必ず奥義に辿りつく」ということです。 ことさら自分を偉そうに言ったり、ことさら自分を主張しなくても、稽古をし学んでさえいれば、奥義に辿りつくことができる……とでも解釈しましょうか。 とても素晴らしい御軸でして、我が家の家宝にしたいと思っております。 |
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ええ言葉ですね。
心新たに。。。
2014/9/16(火) 午後 9:00 [ BASADR ]
文字変えを嫌う方もいらっしゃいますが、私はこの御軸が大好きです^^
2014/9/17(水) 午前 11:01 [ 月[言甫] ]