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禅語とはちょっと違うのですが、茶道と仏法は切っても切り離せぬものです。
茶道とかかわりの深い仏教は、禅宗だけでなく、法華宗も実はかかわりが深くあります。 利休の最初の師である北向道陳(本姓荒木)や、利休に小壺大事を相伝した辻玄哉も法華宗です。 そもそも茶礼も法華宗の中で盛んにおこなわれていましたし、室町後期は法華宗が全盛の時代でもあります。 法華宗の教えの中に「励行学之二道可候 行学絶仏法不可在(行学の二道励み候べし 行学絶えなば仏法在るべからず)」というものがあります。これは、日蓮宗を開いた日蓮の言葉ですが、私的には茶道にも当てはまる言葉であると考えます。 行を疎かにしていいということではありませんが、行だけで修めることができるというのは間違いであると思います。学が行を正しく導き、行が学を深めていく。そういった関係が行と学にはあるということです。 故に「励行学之二道可候 行学絶茶道不可在」という七言対句を私は唱えたい訳です。 これを、短冊に認(したた)めて、掛けておくのもいいかもしれませんが、法華宗の方に軸にしていただきたいなぁ〜と思ったりしています。いずれは、二行物で稽古用に求めたいものですね。弟子に送るのもいいかもしれません。 |
禅語
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掬水月在手(水を掬すれば月手に在り) 弄花香満衣(花を弄すれば香は衣に満つ) 出典:『全唐詩』于良史「春山の夜月」より 一句目が秋の句で、二句目が春の句とされる有名な五言絶句です。 『虚堂録』という南宋末の禅僧、虚堂智愚(1185-1269)の語録に引かれています。 「ふと、水を掬うと、月がその手にあるかのように月影が写っていた」という句になります。 この月影(月の光)は、仏の教えを意味し、「いつでも、どこでも、見るもの、聞くもの、在るものすべてが何一つとして仏法の真理から離れたものは無い」ことを意味します。 茶道においてみれば、仏の教えは規矩にあたり「すべての道具の配置から、所作にいたるまで、何一つ規矩から離れたものはない」ということになります。 この禅語の書かれた掛軸は、多くが中秋の名月や後の名月などに因んで掛けられたり、「菊」と同音の「掬」という字が使われていることから重陽の節句(菊の節句=旧暦九月九日)に用いられたりします。 |
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はじめましての投稿になります。
設置してから大分経っているのですが、実はいくつもblogを持っていて、敢えてyahoo!blogをする必然性を感じなかったがためにこちらには何も投稿してこなかったのですが、メインで使っていますAmebloは茶道に寄りすぎてしまったので、こちらのblogは茶道に限定されない人文的なblogにしようと思います。 最初の記事として相応しいのは「習心帰大道」の解説かな?と思います。 これは、私が綴っているThumblrやAmeblo、Websiteなどの総てのタイトルとしている禅語です。 元の禅語は「無心帰大道(むしんだいどうにきす)」で、替字という贈り相手に相応しい意味にする御坊の遊び心といいましょうか。 この禅語は、大日本茶道学会の山田仙秀先生より、教授披露(茶名披露)の席においてお祝いにいただいたものです。仙秀先生は禅語に造詣が深く、ご自身で後進のために禅語の講義をなさったり、「茶を愉しむ」ことをお教えになさっておいでで、点前を一度拝見させていただきましたが、大変枯れたお点前で、尊敬する方の一人です。 さて、こちらの禅語はどういう意味でしょうか。 この言葉は、『古尊宿語録』巻四十五にある 仙學迷多説。當依柱史評。無心歸大道。有得失長生。物我同真宰。親踈豈可名。良哉衆妙本。一一在忘情。 から採られています。 読み下しは「無心大道に帰す」「無心なれば大道に帰す」「無心にして大道に帰す」などといくつかあります。 「無心とはもちろん空白状態のことではない。あれこれ作為したり選り好みしたり、あるいは悟ってやろうなどという計らいを捨てることである。大道とは菩薩、悟りのことであり、茶道の奥義と考えてもよい。平常心の境涯に徹すれば自ずから開けてくる。(平成5年淡交 増刊号より)」 というような解説もあるそうです。 無心とは「純粋」と置き換えてもいいかもしれません。つまり「何も考えず」ではなく「純粋な気持ちを持つ」ことです。仏法の中では「煩悩即菩提」という言葉があり、これは「欲望がなければ悟りを得ることはできない」という意味で、この欲望とは「求める心」であり、一般的に言う欲望ではありません。 これを一般的な言葉に置き換えると「欲望を純化せよ」ということになりましょうか。 つまり、「希求心を持っていれば、自然と大道(悟り・奥義)に辿りつく」という意味です。 仏法は、同じことを様々な言葉で言い換えていますが、円教ですから実は同じことを言っていることが多いのですけれども、ここにもそれが表れています。 煩悩即菩提でも、無心帰大道でも、実は同じ意味になります。 ただし、人の感応する言葉は違いますから、教えを授ける師によって選ぶ言葉はまた違ったものになる訳ですね。 さて、これを「無心」から「習心」に変えるとどうなりますでしょうか。 これは、恐らく最初に書いていただいた方がやはり稽古事をしている方だったのでしょう。だからこそ、無心よりも解りやすい「習心」という言葉になさったのではないかと思います。 習という字は、鳥が羽ばたくために、なんどもなんども同じ動作を繰り返すことを意味する会意文字で、茶道における稽古にあたります。つまり「稽古に励む心があれば必ず奥義に辿りつく」ということです。 ことさら自分を偉そうに言ったり、ことさら自分を主張しなくても、稽古をし学んでさえいれば、奥義に辿りつくことができる……とでも解釈しましょうか。 とても素晴らしい御軸でして、我が家の家宝にしたいと思っております。 |
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