雲州尼子一族ブログ

背景を変えてみました。すこしニギヤカになって見える?

全体表示

[ リスト ]

京極氏の出雲支配1

□ 最初の記事はこちら … 出雲国支配者の変遷

 今回からようやく尼子氏の本家である京極氏の出雲支配の話です。が、今回もまた尼子氏については触れていません……なんだか『雲州尼子一族』というブログタイトルに反する気がしてきましたが、まぁ気長にお待ちください。

 さて、明徳の乱によって山名氏は没落しましたが、その一方で乱中に大きな戦功を立てた京極高詮は、乱後の論功行賞で出雲・隠岐の守護職を得ました。京極氏の出雲支配は、この高詮から本格的な展開を見ることになります。

 ところで、京極・尼子氏を研究しようとするときに、最も基本的な史料となるものの一つとして、『佐々木文書』があります。これは、尼子義久・倫久・秀久の三兄弟が毛利に降伏し、毛利家中の一員となって生き延びたことによって残された、尼子氏伝来文書の一群です。

 この中に、応永2年に京極高詮が足利義満から与えられた守護職補任状の案文が存在します。高詮が出雲・隠岐の守護に補任されたのは『明徳記』には明徳3年(1392)正月のこととあり、また実際同年中に高詮は出雲の寺社や国人に対してその所領を安堵するなど、出雲守護としての活動を見せていますが、先述のように応永2年の3月には京都において山名満幸を誅伐するという功をたてており、その直後に改めてこの補任状を賜ったものと考えられます。
 ここで特に注目したいのは、この補任状の文言であり、そこでは山名満幸誅伐の恩賞として出雲・隠岐両国の守護職と闕所分を高詮に与えることが述べられ、「本領に准じ、子孫相伝すべきの状件の如し」の文言で結ばれています。

 守護は元来、幕府から任命される地方官であり、その権限もいわゆる大犯三カ条に見られるように、軍事・警察権を中心とした権限に限定されていました。
 しかし、南北朝内乱の過程を経る中で、軍事指揮権の強化とそれに伴う行政・司法の権限の強化がもたらされ、また国内の武士に所領を与えて主従関係を結んだり、国内の荘園に対する干渉を強めるなど、守護の分国支配はしだいに強化され、また守護と分国の結びつきは強固なものとなっていきました。
 このため、室町時代になると、守護職が譲状に記載される例がまま見られるようになり、譲状によって守護職を譲与された守護家の家督相続者が、幕府の補任状によってこれを追認されるという事態も見られるようになりました。

 このように守護職が家督に付随してゆくことは、幕府にとって好ましいことであったとは思えず、それだけに京極氏の場合、幕府の側から守護職を本領に准じて相伝することを認めているのは、幕府が京極氏の功績を高く評価し、これを優遇していたことをうかがわせます。
 高詮は当然これを受け入れ、六年後の応永8年(1401)には諸所領、総領職と共に両国守護職をその子高光に譲りました(『佐々木文書』)。

 続きは次回にしましょう。

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事