|
京極高詮の守護職補任以降、出雲・隠岐の守護職が相伝の職であるとの意識は、京極氏はもちろん、その後継者である尼子氏にも強く保持されていったようです。 後でくわしく触れますが、天文21年(1552)、尼子晴久は幕府から出雲・隠岐・因幡・伯耆・備前・美作・備後・備中の八カ国について守護職の補任を受けます。 このとき、出雲・隠岐の両国のみはその補任状に「総領割分の旨に任せ」とあり(『佐々木文書』)、またその三年後の天文24年(1555)、晴久が有力寺社によせた寄進状には、「当国の儀、嫡家相続の由緒に任せ、代々これを存知す」とあって(『千家文書』『日御碕神社文書』)、尼子氏が京極氏以来の相伝の職として出雲・隠岐の守護職を意識し、またそれを幕府から認められていたことがうかがえます。 このことは、後に改めて述べるような京極氏と尼子氏の連続性・一体性を示すひとつの事例と言えるでしょう。 ところで、先の京極高詮に対する守護職補任状が発給されてからそれほどくだらない時期に、京極氏側から幕府に対して、出雲の守護職が「准本領」であることを改めて主張した事件が起こっています。 応永13年(1406)7月、幕府は出雲・周防両国の段銭(寺社の修理にあてる税金)を東寺修理要脚に充てることを定め、各国守護にその徴収を命じましたが、出雲守護京極高光は、出雲においては杵築大社(出雲大社)三月会が毎年の大儀であるため役夫公米を免除されていること、また杵築大社の造営が進行中であることを理由として、これに応じませんでした。 なお杵築大社三月会とは、当時の杵築大社の行事の中で最大の行事でした。杵築大社は朝廷の定めた祭祀機関という側面を持ち、出雲の国主(守護・国司)はその行事をとどこおりなく行えるようはからう義務があったのです。 これが停滞すれば単に職務懈怠の責めを受けるだけでなく、国内諸領主の信を失い、領国経営すら危うくなったというくらいなので、きわめて重要なものであったことが分かると思います。高光が段銭を拒否したのにもこういった背景があるのでしょう。 そこで幕府は応永19年(1412)9月、新たに尾張ほか五ヵ国の棟別を東寺修理要脚に充てると共に、高光に対しても改めて出雲国の段銭徴収を命じましたが、高光はまたしてもこれに応じませんでした。 このときの彼の主張は、段銭の徴収を求める東寺側の申状(『東寺百合文書』)に引用されていますが、その主張は「当国においては、本領に准ぜられ、所役免除の間、此等の如き臨時の国役の事、もとより叶うべからず」と言うものでした。 ここで注目されるのは、まず京極氏側で意識されている「准本領」の具体的な内容が諸役を免除されているということであり、高光はその理論によって幕府から掛けられた諸役(段銭)を拒否しているということです。 ここから思い起こされるのが、後年の尼子経久の行動です。のちに改めて述べるように、文明16年(1484)3月、尼子経久は寺社本所領横領、御所修理段銭難渋などの科で幕府から追討されました(『吉川家文書』)。 『陰徳太平記』などの軍記物は、追放されて浪々の身となった経久が、2年後に富田城を攻略し、以後出雲国内の征服に乗り出していったと伝えており、これが幕府、守護に対する反逆児、下克上の象徴としての尼子氏のイメージを作り上げてきました。 しかし、尼子経久が幕府の追討を受けた理由のうち、段銭の難渋については、先に見たように守護京極氏も室町初期から同様の態度を取っているのです。 尼子経久の動向についてはのちに改めて述べますが、ここではとりあえず、以上のように段銭をめぐる幕府との関係について、京極氏と尼子氏の間に連続性を見ることが可能である点に注目しておきたいと思います。 それでは次回からは、いよいよ尼子氏の動向について探ってみようと思います。
|
全体表示
[ リスト ]




