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それでは、いよいよ主題である出雲尼子氏について、具体的に述べることにしましょう。 まず、尼子氏が出雲に入った時期ですが、じつは同時代の確実な史料にはその記述がなく、明らかにすることができません。 ただ、後世の記述や軍記物にはいくつか尼子氏の出雲入国について述べられているものがありますので、みてみましょう。 まず正徳2年(1712)板行の軍記物『陰徳太平記』ですが、尼子氏の祖高久の次男持久が、京極高詮の守護代として出雲に下り、出雲尼子氏の祖となったと伝えます。 また、『多胡下記手記』には「高詮の弟高久、江州尼子に居り候を目代として富田へ遣わし、出雲・隠岐の仕置きしなされ候」とあって、高久が始めて出雲に下ったという伝承を伝えています。 しかしいずれにしても明証に欠けるところがあり、出雲入国は尼子高久をはじめとするのか、あるいはその子持久であるのか、はたまたまったく違う人物であるのかは分かりません。 尼子氏の発展の様相が明瞭になるのは、持久の子とされる清定の代になってからなのです。 なお、『佐々木系図』の一本では高久の長子詮久を「江州尼子」、次子持久を「雲州尼子」としており、出雲の尼子とは別に近江の尼子氏も存続していたと思われます。 しかしながら「江州尼子」については史料が乏しく、その動向は判然としません。 いっぽうで出雲尼子氏も、応仁の乱以前の動向についてはこれまた史料に乏しく、それほど詳しくはわかりません。 このため『陰徳太平記』などの記述から、応永2年(1395)、尼子持久(あるいは高久)が守護代として出雲にはいり、以後尼子氏が一貫して京極氏の出雲守護代となったとしてとらえるのが通説的理解です。 が、実態は必ずしもそのようではなかったようなのです。 史料を紐解いて見ましょう。 永享11年(1439)11月の日御碕一神子重言上状(『日御碕社文書』)に「宇賀野殿御事、為時之守護代」という文言があります。 また正長元年(1428)9月の佐方道永軍忠状に証判を据えている人物に貼紙で「うかのとの」とあります。 これが京極氏守護代として史上最初に確認されるもので、正長元年ごろには京極氏一族宇賀野氏が守護代として存在していたことがわかります。 もちろん、はじめ尼子氏が守護代として入国したものの何かの理由で罷免され、このとき宇賀野氏が守護代となったという可能性はありますが、少なくとも一貫して尼子氏が守護代をつとめたわけではないことがわかるでしょう。 続きは次回にしましょう。
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