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さて、宇賀野氏が尼子氏より前に守護代となっていた、と書きました。とすれば、尼子氏はいつ守護代となったのでしょうか? 同時代の出雲に関する史料で尼子の名が現れる初見は、前回宇賀野氏の件で紹介したのとおなじ、永享11年(1439)11月の日御碕一神子重言上状です。 京極高詮の守護職補任は明徳3年(1392)といわれていますから、それよりかなり後のことです。 この史料によれば「尼子四郎左衛門尉殿」が、日御碕神社と国造家(杵築大社の社家)の争いを成敗したといいます。 当時、日御碕神社と杵築大社は仲が悪く、杵築大社側が日御碕神社の社領に侵入するなどの横暴をくりかえしていたようで、このとき尼子氏は杵築大社側を処罰したようです。 この尼子四郎左衛門尉は尼子持久に比定されることが多いようですが、実際に誰であるかは不明です。 ところで、ここでは尼子四郎左衛門尉がたしかに守護権限を代行していますが、じつは応仁の乱までの時期で、京極氏の命をうけて出雲における守護権限を代行している者は他にもいるのです。 守護権限を代行していた尼子氏以外の諸氏を確実な史料から拾い出してみると、大熊・古志・松田・三沢・牛尾・大西といった、京極氏が出雲守護となる以前から出雲に勢力を張っていた伝統的国人層がその大部分を占めています。 このうち、大熊・古志氏は義清流の佐々木氏、すなわち鎌倉から南北朝初期にかけての出雲守護塩冶氏の一族です。 その他の諸氏の系譜はさまざまですが、文永8年(1271)の杵築大社三月会頭役結番注文(『千家文書』)で、すでに出雲国内の地頭として見えるものが多くあります。 守護権限を代行していたからといって、これらの諸氏が守護代に任命されていたというわけではないようです。 しかし、先に触れた永享11年の文書を除けば、尼子氏の名が現れるのはようやく康正2年(1456)のことで、しかも尼子氏は、そこで三沢氏などと並列的な立場で京極氏の命を受けているのです(『小野文書』)。 このことは、京極氏の出雲支配が伝統的な在地勢力の存在を前提とし、その力を頼って行われていたことを示しているといえます。 またすでに見たように、応永年間に京極高光が幕府の掛けた段銭の徴収を拒否した直接の理由も、出雲における最大の寺社勢力である杵築大社の神事や造営を優先させるためでした。 このように、京極氏の出雲支配は、出雲の伝統的な在地勢力と妥協し、またその力を頼って行われていたのです。 京極氏の一族である尼子氏が出雲に入ったのは、こうした伝統的な在地勢力を押さえ、京極氏の意思を貫徹させる役割を期待されてのことであったのでしょう。
具体的に尼子氏の勢力がどの程度の実力を持っていたかはわかりませんが、すくなくとも応仁の乱以前の尼子氏は、いまだ京極氏の期待に応えるほどの力を持っていなかったようです。 |
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