|
前回も触れたように、応仁の乱が出雲にもっとも緊迫した軍事情勢をもたらしたのは、応仁2年(1468)のことです。松田氏の富田荘攻撃がきっかけとなり、出雲は戦乱の巷と化したのですが、今回はこの松田氏を取り上げてみることにします。 尼子氏の歴史に多少詳しい人なら、松田氏と聞いて白鹿城主松田誠保を思い浮かべるかもしれません。安来十神山城主松田備前守とは、まさにこの松田誠保とおなじ一族で、承久の乱の後に安来荘地頭職を獲得して出雲に下向した西遷地頭です。 そして応仁の乱当時の松田氏は、中海水運を直接の基盤とする出雲最大の海上勢力として成長していました。 松田氏の居城であった十神山城は、中海に突出した小高い山(「出雲国風土記」には「砥神嶋」とあるが、中世も島であったかどうかは不明)を要塞化した海城で、さらにその麓にあった安来荘には中海最大の港があり、まさに海上領主の拠点にふさわしい戦略的位置を占めていました。 さらに『海東諸国記』には、応仁元年に李氏朝鮮に使者を遣わした人物として「出雲州見尾関処松田備前太守藤原朝臣公順」の名が記されています。この人物は富田荘を攻撃した松田備前守と同一人物と思われます。「見尾関」とは美保関のことですから、松田氏が美保関を実質支配していたことを示しています。 しかし前回述べたように、美保関は守護京極氏の所領でした。したがって当時松田氏がこの美保関を支配していたとするなら、松田氏は京極氏から美保関代官職に補せられていたものと思われます。 美保関は守護に納められる「美保関公用」の請負額年五百貫という数字が示すように、極めて重要な位置を占めていました。さらに、日本海水運の重要な拠点のひとつでもあり、この地を支配する松田氏が日本海水運に深く関わっていたことが想像できます。 このほか、のちに松田氏は京極氏より守護領法吉郷代官職を命じられていますが、松田氏が以前からこの地になんだかの権益をもっていた可能性があります。 また、尼子清定が松田氏との戦での賞として舎人保内の松田氏買取田畠屋敷や中須郷闕所分を得ていますが、これらの地域にも松田氏がなにがしかの権益を持っていたものと思われます。 松田氏の戦力はこれだけではなく、西軍の伯耆守護山名教之の上洛中の留守を守っていた山名六郎の後押しもあり、山名六郎自身が援軍として出雲に攻め寄せていました。 さらに、応仁二年七月二十八日京極持清感状に、尼子清定が討ち取った西軍方のものとして「田中左京亮、白紙帯刀、湯宗左衛門尉、綿貫兵庫助、綿貫与次郎、坂田掃部助、布弘弟、備前守親類被官人、伯州隠州国人等、百余人」とあり、松田氏が島根半島中東部から伯耆・隠岐両国にかけての非常に広範囲にわたる諸領主を糾合して連合軍を形成していることが分かります。 そしてこの連合軍には「三沢氏代官」として福頼氏の名があり、出雲最大の国人勢力である三沢氏も援軍を派遣していました。 これだけ広範囲の諸領主を結びつけることができた直接の契機は西軍山名方としての軍事的結集であって、先にあげた山名六郎の存在が要となっていることは間違いありませんが、現実にそれを支える共通の基盤は日本海・中海・宍道湖水運に他ならず、その最大の要衝である美保関を有する松田氏の存在は極めて大きかったのです。
松田氏が連合軍の中核的存在となりえたのはこういった理由があったからでしょう。 尼子清定は、その勢力拡大にあたって水上勢力をとらえようとしていた傾向があるようですが、その目的を達成するには松田氏打倒が不可欠であったのです。 |
全体表示
[ リスト ]



