雲州尼子一族ブログ

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出雲争乱4

 前回の更新からずいぶん間が空いてしまいました。申し訳ありません。
 けっこう忙しかったりするので、図を作成しようとしていましたが断念しました。
 そして、次回の更新もいつになるか分かりません…まぁ、気長にお待ち下さい。

 さて、前回まで、応仁の乱勃発当初の尼子氏の勢力基盤と敵対勢力である松田氏とその与党の勢力をみてきました。今回からは、具体的な軍勢の動きを追ってみたいと思います。

 何度も触れたように、出雲における争乱の発端となった戦いは応仁2年(1468)6月20日の松田備前守による「富田内庄堺村」攻撃です。しかし「佐々木文書」によれば、これよりさかのぼる応仁元年(1467)11月7日、東軍総帥細川勝元によって尼子清定の戦功が賞されています。
 この戦功というのが具体的に何かは分かりませんが、同月22日には守護京極持清より清定に対して「出雲の敵」征伐が命じられています。「出雲の敵」とは西軍山名方に属した諸領主を指すものと思われますから、11月7日の「戦功」というのも、西軍領主層との小競り合いがあった結果なのかもしれません。

 これ以降しばらくは西軍との戦闘はなかったようですが、あけて応仁2年の5月2日には能義郡土一揆が発生、二度にわたる富田城攻撃が行われました(『大日本史料』)。
 土一揆とはその名のとおり土民による一揆のことで、このときも一度目の攻撃では土民1600人が参加して行われたとされています。この人数からしてかなり大規模な一揆であったことがわかります。
 問題なのは続く第二回目の攻撃で、これは野武士600名によるものであったといわれ、くわえてこの攻撃には松田氏や三沢氏などの西軍領主層が参加していたといいますから、土一揆というよりは国一揆(国人による一揆)の様相を呈しています。
 このことからして、一度目の土民の蜂起も松田氏などの扇動によるものである可能性が濃厚であろうと思われます。
 松田氏ら西軍領主と尼子氏の直接の戦いの勃発は応仁2年6月20日ですが、ここで見たようにそれ以前から両者の争いは始まっていたのです。

 そして、この争いが6月20日の松田氏の富田荘攻撃へとつながるのです。松田勢を迎撃した尼子清定は松田勢撃退に成功していますが、清水弾正ら数名の被官が負傷したといいますから、戦闘はかなり激しいものだったと思われます。

 この松田氏の攻撃を契機に、出雲は一気に戦乱の時代へと突入します。守護方への明確な敵対行動に出た松田氏に対し、清定は当然ながら反撃に出たのです。
 これは単に守護京極氏・東軍総帥細川氏の意向に従ったものというだけではなく、尼子氏にとっても自己の権益を公然と拡大できるチャンスでもあったのです。
 もっとも、孤立無援のこの状態での戦いは存亡の危機でもあったわけですが…

 ともかく、反撃を開始した清定は7月1日、松田備前守の居城安来十神山城を攻撃しました。松田勢は出雲ならびに隠岐・伯耆の諸領主の軍を配してこれを迎撃、このために落城には至らなかったようですが、清定は松田氏連合の諸氏ならびに松田氏一族・被官人、隠岐や伯耆の国人ら百余名を討ち取る成果を挙げています。
 このあたりは前回も触れましたが、松田氏に与同する勢力がかなり広範囲にわたるものであったことが分かります。

 続きは次回にしましょう。

閉じる コメント(2)

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面白くなってきましたね。この時代のことは、出雲の人でもほとんど知っていないことではないでしょうか。期待しています。

2007/11/13(火) 午前 9:16 [ shigechanizumo ]

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シゲさん、マイドです。更新が遅くて申し訳ないですが、忘れたころに更新します^^; 気長にお待ち下さい。。。

2007/11/19(月) 午前 1:47 sas*ki*hit*hisa


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