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松田備前守は尼子清定の猛攻に対して少なからぬ被害を出しながらも、十神山城を守りました。このため清定は矛先を転じて西軍勢力を各個撃破する策に出ます。 7月28日、清定は軍勢をわけて意宇郡岩坂城(松江市八雲町)、ならびに伯耆外波城(鳥取県)を攻撃、三沢氏の代官福頼十郎左衛門を討ち取りました。 さらに下河原宗左衛門尉の守る出雲郷(八束郡東出雲町)春日城も攻撃しましたが、これは失敗におわり、神保与左衛門尉・西木彦左衛門らの被官を失いました。 そして8月1日、清定は再び十神山城を攻撃するかたわらその支城を攻め、八幡・富尾の両城を陥れました。しかし肝心の十神山城の守りは堅く、このときもこれを落とすことはできませんでした。 9月17日、清定は一隊を大原郡に派遣して馬田城を攻略し、自らは出雲郷に出陣して先に攻略できなかった春日城を落とすことに成功しました。さらに19日には湯郷の岩屋城の糧道を断ってこれを孤立させています。 そして21日、清定は自ら采配をふるってみたび十神山城を攻撃、山名六郎や松田備前守のたてこもるこの城をついに陥落させたのです。 ついで25日には美保関に出陣し、伯耆の山名党を蹴散らしました。まさに東奔西走、神出鬼没の大奮戦です。 この健闘に対し守護京極持清は、恩賞として能義郡利弘荘、飯石郡宅和知行分、島根郡生馬郷、能義郡中須闕所分、能義郡舎人保内松田備前守買得田畠屋敷など、能義郡、意宇郡、島根郡で多くの所領を宛行い、また能義郡奉行職・美保関代官職などの諸職を与えました。 これによって清定は、能義郡広瀬の富田城を拠点に出雲東部に大きな権力基盤を築くことができました。なかでも美保関代官職をえて、中海の制海権につづいて山陰の沿岸水運の拠点を押さえたことは、やがて年額500貫の納入を命ぜられていた公用銭(この中心は勘過料・帆別銭などの舟役)を緩怠横領してしまったように、その後の尼子氏の富強におおいに貢献したのです。 なお、尼子氏の美保関支配はこの美保関代官職補任によって論じられることが多いのですが、この補任は先述9月25日の美保関攻略による同地の軍事制圧を前提とするものです。 尼子氏は軍事的制圧によって事実上美保関の支配権を獲得したものと思われ、この代官職補任は支配権の事後承認といった性格のものであったと思われます。 ともあれ、尼子清定は困難な状況を克服して美保関支配権を事実上獲得しており、このことは松田氏に大きな打撃を与えることになりました。そしてこの後、松田氏の当主は松田三河守という人物になりますが、この人物は基本的には東軍京極氏方として行動しています。とはいうものの、尼子氏と松田氏の関係はなおしばらく不安定なものであったようです。 松田氏はこの後京極氏より法吉郷代官職に補任され、さらに美保関にもなおある程度の権益を保有していたので、松田氏の勢力を過小評価することはできません。しかしながら、尼子氏の美保関領有と安来荘進出によって、海上勢力としての松田氏の固有性は大きく損なわれたものと思われます。 諸系譜によれば、のちの松田氏当主、松田誠保が清定の孫政久の娘婿になるなどし、毛利氏との戦いにおいても白鹿城の攻防などにおいて中心的役割を果たしています。この時期に至るまでに、松田氏の尼子氏に対する帰属性が非常に強固になっていたことが伺えます。
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