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清定は、十神山城攻略と美保関制圧により、松田氏を圧伏させることに成功しました。しかし、これで出雲国内の騒乱が終わったわけではありませんでした。 文明元年(1469)7月1日、大原郡は大東草尾にて戦闘が発生します。この戦闘は、大東牛尾三笠山城主、牛尾三河守が敵対勢力と衝突したもので、牛尾勢は多数の死傷者を出して敗北したようです。 この敵対勢力というのが具体的に何者であったかはわかりませんが、先述したように牛尾氏は数少ない東軍京極氏についた領主であるため、西軍方の領主連合であったことは間違いありません。 尼子清定はこの牛尾三河守のために守護京極持清に感状を要求するとともに、牛尾氏救援のため大東方面へ軍を展開しました。 7月29日、野田原での合戦は激戦となり、被官人多数が負傷する事態となりましたが、8月4日中城進山では清定自らが指揮をとって敵陣を破り、久野次郎左衛門尉、下河原宗左衛門尉ほか出雲・伯耆の敵数十人を討ち取る戦果を挙げました。 翌文明2年(1470)、今度は出雲国内の国人衆が国一揆を起こします。 6月2日、守護京極持清は、清定に対して一揆を起こした国人諸衆の知行差し押さえを命じ、その結果、知行を差し押さえられた面々は、多胡宗右衛門尉、山佐五郎左衛門尉、佐方民部丞、飯沼四郎右衛門尉、下笠豊前守、野波次郎右衛門尉、および小境四郎左衛門尉の七人におよびました(『佐々木文書』)。 これらの諸国人の本拠地は、飯沼氏・下笠氏が大原郡西北部、佐方氏が飯石郡北端、多胡氏が中海西岸、山佐氏が能義郡西部、野波氏が島根半島北端、小境氏が宍道湖西部北岸であり、かなり広汎な地域におよぶ一揆であったことがわかります。 これらの領主相互を結びつけた直接の契機は当然ながら西軍山名氏方としての軍事的結集ですが、持清の書状によれば「近年」三沢氏惣領対馬守(為信)を中心とする国人が「一揆同心」して京極氏に「緩怠」し、京極氏が何らかの処分を行ったとしており、このことからこの7人の国一揆の背景には三沢氏を中心とする結びつきがあり、むしろこの一揆の首謀者は三沢為信こそが張本人であったと推測されます。 ともかく、この一揆鎮圧によって国内諸領主の動きは抑えられたようです。そこで清定は、出雲国内の勢力と呼応していた国外の西軍勢力を叩くべく、伯耆に軍を向けました。 文明3年(1471)8月21、清定軍は伯耆境松で西軍勢力と衝突して被官人二十数人が負傷するという損害を出しながらも数十人を討ち取る戦果を挙げました。 しかし閏8月16日、今度は逆に山名勢が反撃に出て伯耆より美保関に侵入、尼子方は被官堀江三郎が討死したのをはじめ、多数の被官人が死傷しました。勢いに乗る山名勢は出雲に乱入して能義郡井尻の難波城に立て籠もります。 9月21日、清定は多数の死傷者を出す激戦を制してこれを攻め落とし、村上民部、一条出雲ら多数の敵を討ち取りました。 この井尻難波城合戦で出雲の西軍勢力はほぼ駆逐されたものと思われます。伯耆の山名党は結局月山富田城の奪取はできなかったのです。
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こんちわ!
また更新が続いて楽しみです。こないだ山陰に帰ったときに、米子で歴史小説家の伯耆坊俊夫さんと偶然に会うことができましたあ。私は美保関出身なので、今のところあたりにたいへん興味があって、何か目新しいネタをお持ちではないかと思って、いろいろお尋ねしたんですが、あまり古文書も残っていないようです。
2007/11/23(金) 午前 8:34 [ M.M. ]
偶然会うことが出来たとは、すごい偶然ですねぇ…寺院などの過去帳が残っていればいいんですが、たいがい江戸時代以降のものしか残っていないらしいですね。ウチの近所(松江市東津田)に尼子家臣の立原久綱の墓所があるお寺があるんですが、そこにも江戸以前の史料はなくて、なぜ立原久綱の墓所がここにあるのかはわからないそうです。
更新はタートルペースですが、またたまに覗いてくださいな。思い出したころに更新してます〜^^;
2007/11/25(日) 午前 0:41