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前回まで述べてきたように、出雲国内の争乱は尼子清定の活躍により収束しました。もちろんこのことが即尼子氏の出雲支配権確立を意味するわけではありませんし、応仁・文明の乱そのものは主戦場である京都においてまだ継続していたので、国内の諸領主と尼子氏の間にはなお不安定な関係が続いたようです。 一方で、中央では文明2年(1470)8月、京極持清が64際で病没しました。持清の嫡子勝秀はすでに他界していたため、その子孫童子丸が家督を継いで出雲以下の守護職に補任され、叔父政高(のち政経)がその後見となりました。 しかし孫童子丸は病弱であったため、文明3年(1471)閏8月、政高は孫童子丸に代わって家督を継いで出雲・隠岐・飛騨三カ国の守護となり、さらに文明5年(1473)9月には近江守護を加えて京極氏の実権を握りました。 なお、孫童子丸は政高の家督相続後まもなく死亡しています。 文明6年(1474)、清定は嫡子尼子又四郎(のちの経久)を上洛させ、新守護京極政高に目通りさせるとともに、課せられている美保関公用銭5万疋のうち1万疋(100貫)を納めさせました。 ここで又四郎は美保関公用銭について政高と減額交渉にあたったようで、「年額5万疋と定められていた公用銭を、文明7年から5年間4万疋に減額する」という返答をもらっています(『佐々木文書』)。またこのあと、尼子氏の出雲の所領について安堵の書状も受けています。 この上洛の意味について、「清定が又四郎に守護京極氏の実力を打診させた」とする見解が一般的なようですが、これは「尼子氏が京極氏からの独立を図っている」という前提にたっての見解でしょう。 しかしこの時点では、いまだ尼子氏の出雲支配には守護京極氏の存在が不可欠で、とても独立を模索する段階ではなかったのは間違いありません。先ほど述べたように出雲国内の政情はなお不安定で、尼子氏としては守護京極氏との関係を保っておくべき必要があり、又四郎の上洛は、「主家の実力打診」などというよりはむしろ主家との関係強化を狙ったものであると考えたほうが自然であると思われます。 さてその後、守護京極政高は兄弟である政光・高清と対立を深めました。さらに京極氏の有力家臣である多賀氏の一族にも内紛があって、京極政光・高清・多賀清直(出雲守)らの反政高派は西軍六角高頼と結んだため、近江では西軍が優勢となりました。 劣勢に立たされた政高、多賀高忠(豊後守)らは、この難局を打開するため、文明7年(1475)8月から10月にかけて、山門や小笠原家長らの支援を得て六角高頼に大反撃を試みました。しかし、結局は「出雲国人巳沢(三沢)以下数百人」が討ち死にするという大敗をこうむりました(『長興宿禰記』)。敗れた政高は、態勢を整えるために分国出雲に落ち延びることになります。 なお、尼子又四郎は上洛後、そのまま京極政高のもとにとどまったといわれています。通説では、又四郎は清定から家督を譲り受けたと思われる文明11年(1479)ごろに出雲に帰国したとされていますが、東軍勢力である京極政高が守護代尼子氏のいる出雲に落ち延びているのに、西軍勢力の支配する中央に又四郎がひとり残っていたとするのは不自然です。
したがって、又四郎はこの政高の出雲下向にしたがって、ともに出雲に帰ったものと思われます。 |
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