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又四郎が出雲に帰国した翌年の文明8年(1476)4月、出雲では能義郡土一揆が蜂起しました。 このとき富田城にいた被官はわずかで、清定ら尼子軍は一揆軍相手に苦戦を強いられたようです。 4月14日、庄堺において尼子軍は一揆軍と衝突し、被官福頼五郎らが負傷する激戦となりました。さらに16日には上田・古川の両所で戦闘が起こって被官立原十郎左衛門尉らが負傷、19日には桜崎で戦闘が発生し女塚仲兵衛尉が負傷、野伏に死者が出るありさまでした。 5月にはいって2日、三日市で戦闘となって多久三郎左衛門尉らが傷を被りました。その後13日、一揆勢は富田荘にはいって富田城を急襲しました。 この前日、富田城の大木戸役(大手門の守将)であった下笠豊前守が持場を放棄して富田城を去っていたために、一揆勢は城門に殺到しましたが、清定自ら太刀をふるって押し返し、15人の首を討ち取ったといいます。 この一揆は土一揆という体裁をもってはいますが、実際には松田備前守の後継者とされる松田三河守が首謀者であったと言われます。 先の富田城大木戸役下笠豊前守が持場を放棄したのも、この松田氏による懐柔があったのかもしれません。下笠豊前守は先に国一揆を起こし、知行を差し押さえられた人物のひとりで、尼子氏への不満があったのでしょう。 松田三河守がこのような行動をとったのは、清定と美保郷の領有問題で争っていたからでしょう。事の発端は、文明元年(1469)ないし2年のものと思われる四月二十六日京極持清書状です。 内容は、「美保郷内の福浦(松江市美保関町福浦)・諸久江浦(松江市美保関町諸喰)を松田三河守に遣わしたが、百姓中(在地の土豪)が起請文を作成して、両浦は美保関に含まれると訴えてきたため、両浦を美保関代官職を有する尼子氏の管轄下に組み込め」と命じたものです。 しかしながら松田氏が領有権を大人しく尼子氏に引き渡すはずもなく、両浦をめぐる争いが尼子氏との間に生じたのです。 とはいえ尼子氏は守護を後ろ盾としており、在地土豪も尼子氏に従ったために、松田氏は不利となったようです。このため、松田三河守は一揆を扇動し、尼子氏に圧力をかけようとしたものでしょう。 ともあれ、清定の奮戦によって一揆は鎮圧され、このとき富田城にあった守護京極政高は即座に清定に対し感状を発しています。
そして尼子清定の出雲での活動は、この能義郡土一揆に関する感状を最後に史料から消えてしまいます。おそらくはこのころに死亡、もしくは隠居したのでしょう。 なお、『陰徳太平記』などによると、文明16年(1484)に尼子氏が富田城を追放されたのち、漂白のうちに死亡したことになっています |
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