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尼子清定は文明8年(1476)の能義郡土一揆を最後に歴史の表舞台から姿を消しました。この後は清定の子、又四郎が家督を継ぎ、経久と名乗って尼子氏を発展させていくことになりますが、経久の活躍を見ていく前に、清定の事績について若干の補足を加えておきましょう。 清定の具体的な活動は、応仁の乱以前ははっきりとはしていません。それ以前の記録では、康正2年(1456)に杵築大社と日御碕社が社領の境界紛争を起こした際、守護京極氏の命令で調停にあたったことが知られるくらいです(『小野文書』)。 系譜史料によれば、清定は仁多郡馬来郷の夕景城主・馬来(真木)上野介の娘を娶ったとされています。この馬来郷は出雲と備後との境にあり、地理的な要として後に「尼子十旗」と称されるようになる要衝です。 馬来氏の本拠地馬来郷は斐伊川水系の最上流という位置にあり、その関係から同水系下流に本拠地を持つ出雲最大の領主三沢氏や、国境を越えた備後の山内氏などと強い結びつきを持っていたため、尼子氏が出雲一国支配を目指すうえで、馬来氏との結びつきをもつことは重要な意味があったのです。 ただし、この後の応仁の乱では馬来氏は備後山内氏や三沢氏と歩調を合わせて西軍に属したと見られますから、応仁の乱での出雲争乱を戦い抜くうえで直接的に尼子氏に有利に働くことはなかったようです。 応仁の乱において清定が直接対決した松田氏については、すでに述べたように中海に突出した安来十神山城を本拠として中海水運を直接の基盤とし、さらに美保関を領して日本海水運を手中にしており、出雲東部の主要な経済要地を牛耳っていた存在でした。 清定は孤軍奮闘して十神山を奪い、美保関を占領することに成功しましたが、このことは単に松田氏の勢力をそぎ落としただけでなく、それまで松田氏の手中にあった出雲東部の経済要地を手中に収めるという、重要な意味があったのです。 さらに、中海水運・日本海水運を基盤とするほかの中小の領主の統制をも可能にし、尼子氏の支配力を格段に強化する画期ともなりました。 清定のこうした支配力の強化は、京極氏からの独立を目指した結果のものであるという捕らえ方が一般的のようです。しかし注意しなければならないのは、尼子氏の領国支配がこの段階でなお守護京極氏の権威を前提としていることです。そのため清定が積極的に京極氏からの独立を目指したとは考えにくく、むしろ京極氏とのつながりを重視していたものと思われます。 ともかく、清定は尼子氏の支配を出雲東部に浸透させました。尼子氏の出雲一国支配の確立という事業は、次代の経久に持ち越されたのです。 最後に余談ですが、『山中系図』によると清定には弟がおり、名を幸久といいました。これが山中氏の祖で、山中鹿介はこの後裔であるとされています。系図の註によれば、幸久は清定に対し含むところがあって清定殺害を画策したものの、かえって清定に捕らえられ、布部に幽閉されてそのまま死去したということです。
ただし、幸久の名があらわれるのは佐々木氏の諸系図の中でも『山中系図』だけで、山中氏が尼子氏から発っしたものであると断定することはできませんが。 |
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う〜ん、面白くなってきた。
2007/11/28(水) 午前 9:10 [ shigechanizumo ]
>シゲさん
マイドどうもです! 次の更新からいよいよ尼子経久について書く予定で、現在原稿作成中です…
それにしても、シゲさんのブログは更新頻度が高いですが、筆が早いですねぇ。遅筆の私としては感心しますです。
2007/11/30(金) 午前 0:17