雲州尼子一族ブログ

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富田城追放と帰還1

 文明9年(1477)、京都を主戦場に長らく続けられた応仁の乱は、西軍諸将が次々と分国に帰っていったことで西軍が解散し、事実上終結しました。文明10年(1478)には六角高頼が近江守護に還補され、また京極氏が伝統的に保持していた江北の守護権限は、京極政高と対立していた政高の弟京極高清に与えられました。このため、政高は出雲での雌伏を強いられることになったのです。

 文明11年(1479)ごろ、京極政高は「政経」と改名したようです。そして、清定の嫡男又四郎はこの政経の偏諱を受けて「経久」と名乗り、また民部少輔に任官されました。
 文明11年8月に政経が経久に対し所領を安堵していますので(『佐々木文書』)、経久はこれ以前に父清定から家督を継承したことになります。

 なお、「又四郎」という通称を名乗っていた以上、経久が政経の偏諱を受ける以前に元服していたのは間違いありません。とすればもともとは別の名を名乗っていたわけですが、史料には経久の初名はあらわれず、知ることは出来ません。
 想像するに、父清定(清貞)の「定(貞)」の字をとって「定久(あるいは貞久)」とでもいっていたのかもしれません(清定の「清」は主君京極持清からの偏諱であると思われるので、子に与えるとは考えにくい)。

 さて、家督を受け継いだ経久は、寺社への社領寄進や諸役の免除など、寺社対策を行うなったようですが(『鰐淵寺文書』)、そのほかの具体的な事績ははっきりしていません。
 おそらくは、無難に出雲統治の地盤を固めていったのでしょう。

 ところが文明16年(1484)、突然経久は幕府の追討を受けることになってしまいます。
 『吉川家文書』によれば、この年3月7日、「経久が幕府の命令に背いて寺社本所領を横領し、また御所修理段銭を難渋、そのほかの諸役についても一つならず緩怠した」という理由により、幕府が吉川次郎三郎に対し経久追討の命令を下しているのです。

 これについて、『陰徳太平記』の伝えるところによれば、経久は守護の下知に従わず、富田近郷の地を押領し、また三沢、三刀屋以下の国人を攻め従えようとしたので、守護の下知を受けた三沢・三刀屋・浅山(朝山)・広田・桜井・塩冶・古志らに攻められ、守護代の地位を追われ、経久のかわりに塩冶掃部助が代官(守護代)に据えられたといいます。

 軍記物以外にはこのときの史料が乏しいため、経久追悼劇の詳細がどうであったのかは実際には不明ですが、同年11月15日付けで京極政経から牛尾五郎左衛門に対し経久追討の労をねぎらう感状が与えられていることから、このころまでには経久追討は終了していたものと思われます。

 また、この軍事行動には牛尾氏はじめ、三沢氏、三刀屋氏なども参加していたようです。牛尾氏、三刀屋氏は先の応仁の乱では尼子氏と行動を共にしましたが、ここでは守護京極氏の下知に従っています。
したがって、応仁の乱で尼子氏と行動をともにしたのは、単に守護の命令に従ったまでのことで、尼子氏の被官となったわけではない、ということです。

 ともかく、経久はしばらく雌伏の時をすごすことになったのです。

出雲争乱9

 尼子清定は文明8年(1476)の能義郡土一揆を最後に歴史の表舞台から姿を消しました。この後は清定の子、又四郎が家督を継ぎ、経久と名乗って尼子氏を発展させていくことになりますが、経久の活躍を見ていく前に、清定の事績について若干の補足を加えておきましょう。

 清定の具体的な活動は、応仁の乱以前ははっきりとはしていません。それ以前の記録では、康正2年(1456)に杵築大社と日御碕社が社領の境界紛争を起こした際、守護京極氏の命令で調停にあたったことが知られるくらいです(『小野文書』)。
 
 系譜史料によれば、清定は仁多郡馬来郷の夕景城主・馬来(真木)上野介の娘を娶ったとされています。この馬来郷は出雲と備後との境にあり、地理的な要として後に「尼子十旗」と称されるようになる要衝です。
 馬来氏の本拠地馬来郷は斐伊川水系の最上流という位置にあり、その関係から同水系下流に本拠地を持つ出雲最大の領主三沢氏や、国境を越えた備後の山内氏などと強い結びつきを持っていたため、尼子氏が出雲一国支配を目指すうえで、馬来氏との結びつきをもつことは重要な意味があったのです。
 ただし、この後の応仁の乱では馬来氏は備後山内氏や三沢氏と歩調を合わせて西軍に属したと見られますから、応仁の乱での出雲争乱を戦い抜くうえで直接的に尼子氏に有利に働くことはなかったようです。

 応仁の乱において清定が直接対決した松田氏については、すでに述べたように中海に突出した安来十神山城を本拠として中海水運を直接の基盤とし、さらに美保関を領して日本海水運を手中にしており、出雲東部の主要な経済要地を牛耳っていた存在でした。
 清定は孤軍奮闘して十神山を奪い、美保関を占領することに成功しましたが、このことは単に松田氏の勢力をそぎ落としただけでなく、それまで松田氏の手中にあった出雲東部の経済要地を手中に収めるという、重要な意味があったのです。
 さらに、中海水運・日本海水運を基盤とするほかの中小の領主の統制をも可能にし、尼子氏の支配力を格段に強化する画期ともなりました。

 清定のこうした支配力の強化は、京極氏からの独立を目指した結果のものであるという捕らえ方が一般的のようです。しかし注意しなければならないのは、尼子氏の領国支配がこの段階でなお守護京極氏の権威を前提としていることです。そのため清定が積極的に京極氏からの独立を目指したとは考えにくく、むしろ京極氏とのつながりを重視していたものと思われます。
 ともかく、清定は尼子氏の支配を出雲東部に浸透させました。尼子氏の出雲一国支配の確立という事業は、次代の経久に持ち越されたのです。

 最後に余談ですが、『山中系図』によると清定には弟がおり、名を幸久といいました。これが山中氏の祖で、山中鹿介はこの後裔であるとされています。系図の註によれば、幸久は清定に対し含むところがあって清定殺害を画策したものの、かえって清定に捕らえられ、布部に幽閉されてそのまま死去したということです。
 ただし、幸久の名があらわれるのは佐々木氏の諸系図の中でも『山中系図』だけで、山中氏が尼子氏から発っしたものであると断定することはできませんが。

出雲争乱8

 又四郎が出雲に帰国した翌年の文明8年(1476)4月、出雲では能義郡土一揆が蜂起しました。
このとき富田城にいた被官はわずかで、清定ら尼子軍は一揆軍相手に苦戦を強いられたようです。

 4月14日、庄堺において尼子軍は一揆軍と衝突し、被官福頼五郎らが負傷する激戦となりました。さらに16日には上田・古川の両所で戦闘が起こって被官立原十郎左衛門尉らが負傷、19日には桜崎で戦闘が発生し女塚仲兵衛尉が負傷、野伏に死者が出るありさまでした。

 5月にはいって2日、三日市で戦闘となって多久三郎左衛門尉らが傷を被りました。その後13日、一揆勢は富田荘にはいって富田城を急襲しました。
 この前日、富田城の大木戸役(大手門の守将)であった下笠豊前守が持場を放棄して富田城を去っていたために、一揆勢は城門に殺到しましたが、清定自ら太刀をふるって押し返し、15人の首を討ち取ったといいます。

 この一揆は土一揆という体裁をもってはいますが、実際には松田備前守の後継者とされる松田三河守が首謀者であったと言われます。
 先の富田城大木戸役下笠豊前守が持場を放棄したのも、この松田氏による懐柔があったのかもしれません。下笠豊前守は先に国一揆を起こし、知行を差し押さえられた人物のひとりで、尼子氏への不満があったのでしょう。

 松田三河守がこのような行動をとったのは、清定と美保郷の領有問題で争っていたからでしょう。事の発端は、文明元年(1469)ないし2年のものと思われる四月二十六日京極持清書状です。
内容は、「美保郷内の福浦(松江市美保関町福浦)・諸久江浦(松江市美保関町諸喰)を松田三河守に遣わしたが、百姓中(在地の土豪)が起請文を作成して、両浦は美保関に含まれると訴えてきたため、両浦を美保関代官職を有する尼子氏の管轄下に組み込め」と命じたものです。

 しかしながら松田氏が領有権を大人しく尼子氏に引き渡すはずもなく、両浦をめぐる争いが尼子氏との間に生じたのです。
 とはいえ尼子氏は守護を後ろ盾としており、在地土豪も尼子氏に従ったために、松田氏は不利となったようです。このため、松田三河守は一揆を扇動し、尼子氏に圧力をかけようとしたものでしょう。

 ともあれ、清定の奮戦によって一揆は鎮圧され、このとき富田城にあった守護京極政高は即座に清定に対し感状を発しています。
 そして尼子清定の出雲での活動は、この能義郡土一揆に関する感状を最後に史料から消えてしまいます。おそらくはこのころに死亡、もしくは隠居したのでしょう。
 なお、『陰徳太平記』などによると、文明16年(1484)に尼子氏が富田城を追放されたのち、漂白のうちに死亡したことになっています

出雲争乱7

 前回まで述べてきたように、出雲国内の争乱は尼子清定の活躍により収束しました。もちろんこのことが即尼子氏の出雲支配権確立を意味するわけではありませんし、応仁・文明の乱そのものは主戦場である京都においてまだ継続していたので、国内の諸領主と尼子氏の間にはなお不安定な関係が続いたようです。

 一方で、中央では文明2年(1470)8月、京極持清が64際で病没しました。持清の嫡子勝秀はすでに他界していたため、その子孫童子丸が家督を継いで出雲以下の守護職に補任され、叔父政高(のち政経)がその後見となりました。
 しかし孫童子丸は病弱であったため、文明3年(1471)閏8月、政高は孫童子丸に代わって家督を継いで出雲・隠岐・飛騨三カ国の守護となり、さらに文明5年(1473)9月には近江守護を加えて京極氏の実権を握りました。
 なお、孫童子丸は政高の家督相続後まもなく死亡しています。

 文明6年(1474)、清定は嫡子尼子又四郎(のちの経久)を上洛させ、新守護京極政高に目通りさせるとともに、課せられている美保関公用銭5万疋のうち1万疋(100貫)を納めさせました。
 ここで又四郎は美保関公用銭について政高と減額交渉にあたったようで、「年額5万疋と定められていた公用銭を、文明7年から5年間4万疋に減額する」という返答をもらっています(『佐々木文書』)。またこのあと、尼子氏の出雲の所領について安堵の書状も受けています。

 この上洛の意味について、「清定が又四郎に守護京極氏の実力を打診させた」とする見解が一般的なようですが、これは「尼子氏が京極氏からの独立を図っている」という前提にたっての見解でしょう。
 しかしこの時点では、いまだ尼子氏の出雲支配には守護京極氏の存在が不可欠で、とても独立を模索する段階ではなかったのは間違いありません。先ほど述べたように出雲国内の政情はなお不安定で、尼子氏としては守護京極氏との関係を保っておくべき必要があり、又四郎の上洛は、「主家の実力打診」などというよりはむしろ主家との関係強化を狙ったものであると考えたほうが自然であると思われます。

 さてその後、守護京極政高は兄弟である政光・高清と対立を深めました。さらに京極氏の有力家臣である多賀氏の一族にも内紛があって、京極政光・高清・多賀清直(出雲守)らの反政高派は西軍六角高頼と結んだため、近江では西軍が優勢となりました。

 劣勢に立たされた政高、多賀高忠(豊後守)らは、この難局を打開するため、文明7年(1475)8月から10月にかけて、山門や小笠原家長らの支援を得て六角高頼に大反撃を試みました。しかし、結局は「出雲国人巳沢(三沢)以下数百人」が討ち死にするという大敗をこうむりました(『長興宿禰記』)。敗れた政高は、態勢を整えるために分国出雲に落ち延びることになります。

 なお、尼子又四郎は上洛後、そのまま京極政高のもとにとどまったといわれています。通説では、又四郎は清定から家督を譲り受けたと思われる文明11年(1479)ごろに出雲に帰国したとされていますが、東軍勢力である京極政高が守護代尼子氏のいる出雲に落ち延びているのに、西軍勢力の支配する中央に又四郎がひとり残っていたとするのは不自然です。
 したがって、又四郎はこの政高の出雲下向にしたがって、ともに出雲に帰ったものと思われます。

出雲争乱6

 清定は、十神山城攻略と美保関制圧により、松田氏を圧伏させることに成功しました。しかし、これで出雲国内の騒乱が終わったわけではありませんでした。

 文明元年(1469)7月1日、大原郡は大東草尾にて戦闘が発生します。この戦闘は、大東牛尾三笠山城主、牛尾三河守が敵対勢力と衝突したもので、牛尾勢は多数の死傷者を出して敗北したようです。
 この敵対勢力というのが具体的に何者であったかはわかりませんが、先述したように牛尾氏は数少ない東軍京極氏についた領主であるため、西軍方の領主連合であったことは間違いありません。

 尼子清定はこの牛尾三河守のために守護京極持清に感状を要求するとともに、牛尾氏救援のため大東方面へ軍を展開しました。
 7月29日、野田原での合戦は激戦となり、被官人多数が負傷する事態となりましたが、8月4日中城進山では清定自らが指揮をとって敵陣を破り、久野次郎左衛門尉、下河原宗左衛門尉ほか出雲・伯耆の敵数十人を討ち取る戦果を挙げました。

 翌文明2年(1470)、今度は出雲国内の国人衆が国一揆を起こします。
 6月2日、守護京極持清は、清定に対して一揆を起こした国人諸衆の知行差し押さえを命じ、その結果、知行を差し押さえられた面々は、多胡宗右衛門尉、山佐五郎左衛門尉、佐方民部丞、飯沼四郎右衛門尉、下笠豊前守、野波次郎右衛門尉、および小境四郎左衛門尉の七人におよびました(『佐々木文書』)。
 これらの諸国人の本拠地は、飯沼氏・下笠氏が大原郡西北部、佐方氏が飯石郡北端、多胡氏が中海西岸、山佐氏が能義郡西部、野波氏が島根半島北端、小境氏が宍道湖西部北岸であり、かなり広汎な地域におよぶ一揆であったことがわかります。

 これらの領主相互を結びつけた直接の契機は当然ながら西軍山名氏方としての軍事的結集ですが、持清の書状によれば「近年」三沢氏惣領対馬守(為信)を中心とする国人が「一揆同心」して京極氏に「緩怠」し、京極氏が何らかの処分を行ったとしており、このことからこの7人の国一揆の背景には三沢氏を中心とする結びつきがあり、むしろこの一揆の首謀者は三沢為信こそが張本人であったと推測されます。

 ともかく、この一揆鎮圧によって国内諸領主の動きは抑えられたようです。そこで清定は、出雲国内の勢力と呼応していた国外の西軍勢力を叩くべく、伯耆に軍を向けました。
 文明3年(1471)8月21、清定軍は伯耆境松で西軍勢力と衝突して被官人二十数人が負傷するという損害を出しながらも数十人を討ち取る戦果を挙げました。

 しかし閏8月16日、今度は逆に山名勢が反撃に出て伯耆より美保関に侵入、尼子方は被官堀江三郎が討死したのをはじめ、多数の被官人が死傷しました。勢いに乗る山名勢は出雲に乱入して能義郡井尻の難波城に立て籠もります。
 9月21日、清定は多数の死傷者を出す激戦を制してこれを攻め落とし、村上民部、一条出雲ら多数の敵を討ち取りました。

 この井尻難波城合戦で出雲の西軍勢力はほぼ駆逐されたものと思われます。伯耆の山名党は結局月山富田城の奪取はできなかったのです。

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