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「まずはじめに」で書いたように、尼子氏の実態は従来の定説とはかなり違います。尼子氏興亡の概要は前回書いたとおりですが、これだけ読むと従来の説と実態とがどこが違うのか分かりにくいと思うので、今回はそのあたりを補足説明しておこうと思います。 従来、出雲国における尼子氏権力の拡大の過程については、文明18年(1476)に守護京極氏から富田城奪還(すなわち下克上)して以後、出雲国は経久の切取り次第となり、長享2年(1488)頃には国内統一戦は終了したと言われていました。 しかし実際には、尼子氏の領国支配態勢の強化は守護京極氏との対決ではなく、むしろその守護職権の強化・拡大という形をとって進められました。さらに永世5年(1508)には守護京極氏から守護権を継承、幕府にもそれを認められて出雲国を掌握できたのです。 ただ、守護権限を継承したといってもそれだけで出雲を一国規模で掌握できたわけではありません。尼子氏は、出雲国内最大の経済要地である美保関・塩冶郷・横田荘を順次掌握し、それぞれを基盤として大きな実力を持っていた松田氏・塩冶氏・三沢氏を制圧・討滅・圧迫することによって、段階的に一国支配を実現したのです。 なかでも塩冶氏の掌握・討滅はとくに重要な意味を持ちます。塩冶郷の掌握によって宍道湖・中海水運を掌握し、雲南の三沢氏を牽制して国内領主層を統制することが可能になったからです。 したがって、下克上によって一挙に出雲一国を統一したという従来の認識は誤りなのです。 また、尼子氏の他国への侵攻についても、従来は永世年間(1504〜1520)より活発化し、大永元年(1521)ごろまでには「陰陽十一州の太守」と称されるほどに急速な拡大を遂げたとされており、尼子氏は経久の時代(天文10年以前)が最盛期であると認識されています。 たしかに尼子氏は永世年間の初期から伯耆・石見・備中などの諸国に対して援軍を派遣するなどの軍事行動をとっていますが、これは対外侵略ではなかったようです。尼子氏にとって他国への侵攻が可能な程度の出雲国内領主層の統制は、永世15年(1518)以前に実現した塩冶氏の掌握によってようやく目処が立ったものであり、実際、尼子氏の本格的な対外侵略は大永年間に入ってからはじまっています。 また、経久の時代には対外侵略がさかんでしたが、これは大名権力の確立と維持を他国への侵攻に依存して実現しようとしたものにすぎません。たしかに一時的には尼子氏に与同する領主層が各国に多く出現したものの、「陰陽十一州の太守」と称するだけの実態がなかったことは明らであり、結果的には大内氏の反撃と国内領主層の離反によって窮地に立たされることになったのです。 これに対して晴久の時代には、三沢氏の圧伏や叔父国久の粛清により横田荘・塩冶郷を直轄領として領国支配を強化することに成功しており、晴久の時代こそが尼子氏権力がもっとも深化した時代であったことは間違いありません。 以上、抽象的な書き方もあったので理解しにくいところも多々あるかと思いますが、尼子氏の興亡についての補足説明を終えたいと思います。「なぜこういう結論にいたるのか」といったところが説明されていないので納得いかない方も多いかと思いますが、そのあたりは次回以降、くわしく見ていくことにしましょう。
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序論
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尼子氏について詳しく触れる前に、尼子氏の興亡についてまとめてみることにしましょう。はじめから詳細に書くと全体の流れが分からなくなってしまうかもしれませので… 出雲尼子氏は、もともとは近江国(滋賀県)の京極氏の一族です。佐々木系図などの系譜史料によれば、その祖は京極高詮の弟高久という人物であるとされます。そして高久の次男持久が出雲にはいり、以後清定、経久と続いたとされます。 出雲における尼子氏は永享11年(1439)が史料の初見で、尼子氏は京極氏の出雲守護代として活動していますが、清定以前の尼子氏については史料にとぼしく、詳しくはわかりません。 尼子氏の活動が明瞭になるのは清定からで、この清定のときに応仁の乱が起こり、時代は戦国時代へと突入します。 出雲国内もおおいに乱れ、清定はほとんど味方のいないきわめて厳しい状態で戦うことを強いられましたが、有力領主松田氏などを屈服させることに成功、美保関などの重要拠点をおさえて出雲東部一帯を傘下に収めました。 清定の跡を継いだのがその嫡男経久です。経久は文明16年(1486)に富田城を追放されたものの、永世5年(1508)に守護京極政経が没するとその守護職権を事実上継承、さらに出雲西部に割拠していた有力領主塩冶氏を三男興久に継がせて傘下におさめ、不完全ながらも出雲一国を掌握しました。 こうして足場をかためた経久は、大永・享禄年間(1521〜1531)には安芸国(広島県西部)鏡山城攻略をはじめとして周防(山口県西部)の大名大内氏などを相手に積極的な遠征を試みました。しかし、以後は大内氏の反撃に圧倒され、ついには塩冶興久を中心とする出雲国内の有力領主との大規模な内乱に突入してしまいます。 経久はかろうじて興久を制すると、興久の旧領を次男国久に継がせ、なんとか混乱を収拾しました。 その後、老齢の経久にかわって経久の嫡孫詮久(後の晴久。政久の子)が軍を主導し、機内方面への出陣を繰り返して尼子氏権力の安定をはかりました。しかし天文10年(1541)には安芸の毛利元就の居城吉田郡山城を攻撃して大敗し、さらに同年経久が没してしまいます。尼子氏は危機にさらされますが、晴久(詮久から改名)は侵攻してきた大内氏を撃退し、なんとか窮地を脱します。 以後晴久は、領内の混乱の収拾につとめ、天文14年(1545)には出雲最大の領主である仁多郡の三沢氏を制圧、他方無理な遠征を控え、おもに西、すなわち石見銀山の確保につとめました。さらに奉行人制度などの内政の充実もはかり、天文23年(1554)には対立した叔父国久ら一族を粛清して支配をより深化させています。 しかし永禄3年(1560)に晴久が没して義久が継ぐと、尼子氏は大内氏を倒した毛利元就の攻勢にさらさて次第に劣勢になっていきます。義久は富田城に篭城して戦いますが、要衝白鹿城などの拠点も落ち、ついに永禄9年(1566)、富田城が陥落して尼子氏は滅亡するのです。 なお、富田城落城後の尼子氏は、国久の孫にあたる尼子勝久が尼子氏再興を志して毛利氏との戦いを継続します。しかし勝久は天正6年(1578)に播磨上月城で自害し、再興は果たせずに終わりました。また、義久は毛利に降り、その子孫は長州藩に厚遇されて幕末に至っています。 以上、尼子氏の発祥から滅亡までまとめてみました。少々分かりにくいところもあったかとは思いますが、そのあたりは次回以降くわしく触れていこうと思います。
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このブログは、ブログ名を「雲州尼子一族」としていることからも分かると思いますが、出雲尼子氏を扱った歴史ブログです。この出雲尼子氏とは、戦国時代に出雲国(現在の島根県東部)を中心に強勢を誇ったいわゆる戦国大名のことです。 尼子氏に関する詳しいことは次回以降にとりあげることにして、初回の今回はこのブログや尼子氏に対する私の考えを書いてみようと思います。 従来、尼子氏といえば、下克上の代表格として認識されていました。これは、京極氏の守護代として出雲を治めていた尼子経久が、反幕府・反守護的な行動をとったために富田城を追放され、数年の後に武力によって富田城を奪還した、という通説がもとになった考え方です。 しかし最近では、尼子経久は京極氏より守護権を継承したのだとされ、尼子氏の出雲支配は下克上ではなく既存の大名領国の継続であるという考えが通説になっているようです。 しかしながら一般的には、いまだ従来の通説が根強く信じられているようで、インターネットで検索して出てくる文章の大半も、尼子経久の下克上説を支持しています。どうしてこんなことになるかというと、専門的な論文というのは一般人が目にする機会が少なく、啓蒙書の類や小説などで知識を得ることが多いからでしょう。 かくいう私も、従来の説の王道をいく故妹尾豊三郎氏の著書などを読んで知識を得ていたので、尼子経久といえば下克上の先駆者、というイメージが強烈にありました。しかし、調べれば調べるほど従来の説は否定されていき、とてもガッカリしたのを覚えています。 しかし逆に、従来の定説では「血気にはやる短慮な当主」というレッテルを貼られていた経久の孫晴久が、実際にはなかなかのキレ者であったようだということも分かってきて、なんだかワクワクしました。 ただ、書物を読むだけではなかなか整理できなかったので(私はアタマが悪いもので)、自分で読み調べたことを書き起こそうと思ったのです。そしてせっかくなので、書き起こしたモノを興味のあるヒトにも読んでもらおう、と。そこで、ブログという媒体を利用することにしたのです。 いまこの記事を読んでいる人は、戦国時代に興味がある、もしくは島根県ゆかりの人で島根に関することを知りたいと思っている、という人であると思います。とすれば尼子氏に関することも少しはご存知かもしれません。その知識を、私のブログで深めてもらえたら幸いです。 ただし、私は専門家でもなんでもない一般人のド素人なので、文章は稚拙だし資料の読み間違いや勘違いからヘンなことを書いているかもしれません。なので、このブログの内容をまるっきり鵜呑みにするのはキケンです。そのあたり、ご理解いただいたうえでお読みください。 最後に、誤字・脱字などありましたらコメント欄かゲストブックで報告していただけると喜びます。 それでは、つたないブログではありますが、次回から尼子氏の世界をいっしょに探っていきましょう。 最後に、お詫びを。
実はこのブログ、以前にも記事をアップしていましたが、その記事は諸々の事情により消してしまいました。 コメントを書いていただいたみなさん、どうも申し訳ありません。そして今後ともよろしくお願い致します。 |
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