雲州尼子一族ブログ

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出雲国について

イメージ 1  出雲国は室町時代から戦国期にかけて、京極氏・尼子氏の領国となりましたが、その出雲国とはどういう国だったのでしょう? 

 現在の行政区画としての島根県の地域は、前近代には三つの国でした。すなわち、県東部は出雲国、西部は石見国、隠岐諸島は隠岐国です。
 島根県は、いまでこそこれといった産業のない高齢化に悩む過疎の県です。が、かつての出雲国をもそのようなイメージでとらえると、誤った歴史観を生じてしまうことになります。

 そもそも現在の島根県の産業が遅れてしまったのは、明治以降の日本政府の鉄道政策に原因の一端があると思われます。
旧出雲国の鉄道敷設は山陽側よりも20年も遅れており、石見国はこれよりもさらに遅く、全国でも最も遅く鉄道敷設が完了しました。このために物資輸送が困難で市場との直結ができず、産業の工業化が遅れてしまったのです。
 しかし逆に言えば、明治以前は全国と比べても産業面で遅れてはいたということはなかった可能性がある、ということになります。

 ではここで、出雲国の地形を見渡してみましょう。
 出雲国は、なだらかな中国山地を南にひかえ多くの砂鉄を含みます。そこから流れ出す大小多数の河川が北流して形成した肥沃な平野が存在し、その先は宍道湖・中海というふたつの大きな湖が存在します。そして北は日本海に面する複雑に屈曲した海岸線が多数の湾を形成し、天然の良港となっています。

 このように出雲国は、たたら製鉄をふくむ山の幸、湖海の幸と海上を使った交易の利、そして中国地方有数の肥沃な穀倉地帯と、みるからに豊かな土地柄であったのです。
産業の遅れどころか、鉄鋼業・農業が盛んで、日本海水運の拠点として物資流通もさかんな、きわめて豊かな国であったことがわかると思います。

 かつて律令制では各国を「大」「上」「中」「下」の4等級にランク付けしていましたが、出雲国はそのうち「上国」に位置づけられていました。また、赴任した国司には通常上国国司に任命される位以上の位階をもった人物も多かったようです。これらのことは出雲国がそれだけ豊かであり、かつ朝廷から重要視されていたことを裏付けるものでしょう。

 では続いて、武士の時代までの出雲国の様子を見てみましょう。
 ご存知の方もいらっしゃるかとは思いますが、かつて荒神谷遺跡から銅剣・銅矛・銅鐸が、加茂岩倉遺跡からも銅鐸が、全国でも例のないほど大量に発見されました。
 この両遺跡は弥生時代中期のものだと推定されていますが、このころ出雲地方の政治的・経済的位相にはなみなみならぬものがあったことが分かります。

イメージ 2 古墳時代にはいると、意宇(大橋川以南の松江市を中心とする地方)を勢力基盤とする勢力と出雲西部の勢力の二大勢力が成長し、やがて7世紀ごろ、意宇の勢力が全出雲を統一しました。この意宇勢力の首長は「出雲臣」の氏姓を名乗った豪族で、大和政権から出雲国造に任命されます。

 これが出雲大社の社家、出雲氏(戦国時代に千家・北島両氏に分かれる)の祖で、律令時代に入ってからも出雲国造と意宇郡大領(長官)など数郡の郡司を兼任して勢力を誇っていました。しかし、延暦17年(798)、国造職と大領の兼任が禁止されたため、出雲氏は出雲西部の杵築大社(出雲大社)へと移ったようです。

 以後、出雲氏は国造として出雲大社において祭祀を司り、出雲国の政治は国司が全権を握りました。そしてこの体制は武士の時代の到来まで続くことになるのです。

※ 写真は出雲国庁跡(松江市大草町)

大彦命と佐々貴山君

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 1968年(昭和43年)、埼玉県行田市稲荷山古墳(写真。ウィキペディアより転載)から、鉄剣が出土しました。そしてその後の保存修理の結果、全文115字からなる金象嵌(きんぞうがん)の銘文が刻まれていることがわかりました。
 そこには、以下のようなことが記されていました。

『辛亥の年中記(しる)す。乎獲居臣(ヲワケノオミ)、上つ祖(おや)名は意冨比垝(オホヒコ)、其(そ)の児、多加利足尼(タカリノスクネ)、其の児、名は弖已加利獲居(テヨカリワケ)、其の児、名は多加披次獲居(タカハシワケ)、其の児、名は多沙鬼獲居(タサキワケ)、其の児、名は半弖比(ハテヒ)、其の児、名は加差披余(カサハヨ)、其の児、名は乎獲居臣。世々杖刀人の首として、事(つか)え奉り来り今に至る。獲加多支鹵大王の寺、シキの宮に在る時、吾(われ)天下を左(たす)け治む。此の百練の利刀を作らしめ、吾が事え奉る根原を記すなり』

 この銘文からすると、古墳に埋葬されていたのはヲワケという人物で、獲加多支鹵大王に支えたようです。「辛亥年」とは西暦471年のことなので、ヲワケの仕えた大王とは『古事記』『日本書紀』でいうところのオオハツセワカタケル大王、すなわち雄略天皇のことであると推定できます。
 そしてこのヲワケの先祖はオホヒコという人物であり、ここにはオホヒコ以下、八代の系譜が記されているのです。

 ここで気になるのが、オホヒコという人物。オホヒコ、つまり大彦命といえば、孝元天皇の第一皇子で、北陸道を制圧した四道将軍のひとりです。
 四道将軍とは、崇神天皇10年(前88)に北陸、東海、西道、丹波の四地域に派遣された皇族の将軍のことで、それぞれ翌年にはこれらの地域を制圧して都に凱旋したと言われています。
 なお、このうち西道に派遣された吉備津彦命は、桃太郎のモデルとして有名ですので、ご存知の方もいらっしゃるかもしれません。
 これら四道将軍の話などは神話に近いものであって現実の歴史だとは認識されておらず、そのため大彦命も架空の人物だと思われていましたが、鉄剣銘文の発見で、にわかに実在の人物である可能性が出てきたわけです。

 さて、ここまで読んだ方は「その大彦命が尼子氏となんの関係があるんだ?」とお思いかと思いますが、結論から言えば、この大彦命が尼子氏の上祖であるかもしれないのです。
 どういうことか、説明しましょう。

 大彦命が上祖であると称する一族は阿倍氏や筑紫国造などいくつかありますが、佐々貴山君もそのひとつです。
 鉄剣の銘文にある八代の名前の中に、タサキワケという名がありますが、「ワケ(別)」は大和政権のさだめた姓(かばね)のひとつで、「タサキ」はササキの地名を氏としたものと思われます。佐々貴山君の直接の祖は、このタサキワケであると考えられます。
 その後佐々貴山君は「近江源氏の系譜」で触れたとおり、近江佐々木の地に勢力を誇る古代豪族に成長するのです。

 そしてこれも先に触れたように、尼子氏の祖である宇多源氏佐々木氏は、実はこの佐々貴山君が源氏を仮冒したものだという説があるのです。
 このブログでは佐々貴山君と宇多源氏佐々木氏は別流であるという説をとっていますが、現在残る佐々木系図には、この佐々貴山君の系譜が入り込んでいるようです。
 佐々貴山君が上祖大彦命を祀って祭祀を司った沙沙貴神社が、後には宇多源氏佐々木氏ゆかりの神々を習合して佐々木一族の守り神として信仰を集めたところからみても、両者はもともと別流であっても、切っても切れない関係になっていったのでしょう。

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