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			<title>雲州尼子一族ブログ</title>
			<description>戦国大名・尼子氏について、とりとめもなく書いております。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/sasaki_hitohisa</link>
			<language>ja</language>
			<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
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			<title>雲州尼子一族ブログ</title>
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			<description>戦国大名・尼子氏について、とりとめもなく書いております。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/sasaki_hitohisa</link>
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		<item>
			<title>富田城追放と帰還1</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　文明9年（1477）、京都を主戦場に長らく続けられた応仁の乱は、西軍諸将が次々と分国に帰っていったことで西軍が解散し、事実上終結しました。文明10年（1478）には六角高頼が近江守護に還補され、また京極氏が伝統的に保持していた江北の守護権限は、京極政高と対立していた政高の弟京極高清に与えられました。このため、政高は出雲での雌伏を強いられることになったのです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　文明11年（1479）ごろ、京極政高は「政経」と改名したようです。そして、清定の嫡男又四郎はこの政経の偏諱を受けて「経久」と名乗り、また民部少輔に任官されました。&lt;br /&gt;
　文明11年8月に政経が経久に対し所領を安堵していますので（『佐々木文書』）、経久はこれ以前に父清定から家督を継承したことになります。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　なお、「又四郎」という通称を名乗っていた以上、経久が政経の偏諱を受ける以前に元服していたのは間違いありません。とすればもともとは別の名を名乗っていたわけですが、史料には経久の初名はあらわれず、知ることは出来ません。&lt;br /&gt;
　想像するに、父清定（清貞）の「定（貞）」の字をとって「定久（あるいは貞久）」とでもいっていたのかもしれません（清定の｢清｣は主君京極持清からの偏諱であると思われるので、子に与えるとは考えにくい）。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　さて、家督を受け継いだ経久は、寺社への社領寄進や諸役の免除など、寺社対策を行うなったようですが（『鰐淵寺文書』）、そのほかの具体的な事績ははっきりしていません。&lt;br /&gt;
　おそらくは、無難に出雲統治の地盤を固めていったのでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　ところが文明16年（1484）、突然経久は幕府の追討を受けることになってしまいます。&lt;br /&gt;
　『吉川家文書』によれば、この年3月7日、「経久が幕府の命令に背いて寺社本所領を横領し、また御所修理段銭を難渋、そのほかの諸役についても一つならず緩怠した」という理由により、幕府が吉川次郎三郎に対し経久追討の命令を下しているのです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　これについて、『陰徳太平記』の伝えるところによれば、経久は守護の下知に従わず、富田近郷の地を押領し、また三沢、三刀屋以下の国人を攻め従えようとしたので、守護の下知を受けた三沢・三刀屋・浅山（朝山）・広田・桜井・塩冶・古志らに攻められ、守護代の地位を追われ、経久のかわりに塩冶掃部助が代官（守護代）に据えられたといいます。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　軍記物以外にはこのときの史料が乏しいため、経久追悼劇の詳細がどうであったのかは実際には不明ですが、同年11月15日付けで京極政経から牛尾五郎左衛門に対し経久追討の労をねぎらう感状が与えられていることから、このころまでには経久追討は終了していたものと思われます。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　また、この軍事行動には牛尾氏はじめ、三沢氏、三刀屋氏なども参加していたようです。牛尾氏、三刀屋氏は先の応仁の乱では尼子氏と行動を共にしましたが、ここでは守護京極氏の下知に従っています。&lt;br /&gt;
したがって、応仁の乱で尼子氏と行動をともにしたのは、単に守護の命令に従ったまでのことで、尼子氏の被官となったわけではない、ということです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　ともかく、経久はしばらく雌伏の時をすごすことになったのです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/sasaki_hitohisa/38933207.html</link>
			<pubDate>Fri, 30 Nov 2007 19:56:18 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		<item>
			<title>出雲争乱9</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　尼子清定は文明8年（1476）の能義郡土一揆を最後に歴史の表舞台から姿を消しました。この後は清定の子、又四郎が家督を継ぎ、経久と名乗って尼子氏を発展させていくことになりますが、経久の活躍を見ていく前に、清定の事績について若干の補足を加えておきましょう。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　清定の具体的な活動は、応仁の乱以前ははっきりとはしていません。それ以前の記録では、康正2年（1456)に杵築大社と日御碕社が社領の境界紛争を起こした際、守護京極氏の命令で調停にあたったことが知られるくらいです（『小野文書』）。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　系譜史料によれば、清定は仁多郡馬来郷の夕景城主･馬来（真木）上野介の娘を娶ったとされています。この馬来郷は出雲と備後との境にあり、地理的な要として後に「尼子十旗」と称されるようになる要衝です。&lt;br /&gt;
　馬来氏の本拠地馬来郷は斐伊川水系の最上流という位置にあり、その関係から同水系下流に本拠地を持つ出雲最大の領主三沢氏や、国境を越えた備後の山内氏などと強い結びつきを持っていたため、尼子氏が出雲一国支配を目指すうえで、馬来氏との結びつきをもつことは重要な意味があったのです。&lt;br /&gt;
　ただし、この後の応仁の乱では馬来氏は備後山内氏や三沢氏と歩調を合わせて西軍に属したと見られますから、応仁の乱での出雲争乱を戦い抜くうえで直接的に尼子氏に有利に働くことはなかったようです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　応仁の乱において清定が直接対決した松田氏については、すでに述べたように中海に突出した安来十神山城を本拠として中海水運を直接の基盤とし、さらに美保関を領して日本海水運を手中にしており、出雲東部の主要な経済要地を牛耳っていた存在でした。&lt;br /&gt;
　清定は孤軍奮闘して十神山を奪い、美保関を占領することに成功しましたが、このことは単に松田氏の勢力をそぎ落としただけでなく、それまで松田氏の手中にあった出雲東部の経済要地を手中に収めるという、重要な意味があったのです。&lt;br /&gt;
　さらに、中海水運・日本海水運を基盤とするほかの中小の領主の統制をも可能にし、尼子氏の支配力を格段に強化する画期ともなりました。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　清定のこうした支配力の強化は、京極氏からの独立を目指した結果のものであるという捕らえ方が一般的のようです。しかし注意しなければならないのは、尼子氏の領国支配がこの段階でなお守護京極氏の権威を前提としていることです。そのため清定が積極的に京極氏からの独立を目指したとは考えにくく、むしろ京極氏とのつながりを重視していたものと思われます。&lt;br /&gt;
　ともかく、清定は尼子氏の支配を出雲東部に浸透させました。尼子氏の出雲一国支配の確立という事業は、次代の経久に持ち越されたのです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　最後に余談ですが、『山中系図』によると清定には弟がおり、名を幸久といいました。これが山中氏の祖で、山中鹿介はこの後裔であるとされています。系図の註によれば、幸久は清定に対し含むところがあって清定殺害を画策したものの、かえって清定に捕らえられ、布部に幽閉されてそのまま死去したということです。&lt;br /&gt;
　ただし、幸久の名があらわれるのは佐々木氏の諸系図の中でも『山中系図』だけで、山中氏が尼子氏から発っしたものであると断定することはできませんが。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/sasaki_hitohisa/38870273.html</link>
			<pubDate>Wed, 28 Nov 2007 01:39:48 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		<item>
			<title>出雲争乱8</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　又四郎が出雲に帰国した翌年の文明8年（1476）4月、出雲では能義郡土一揆が蜂起しました。&lt;br /&gt;
このとき富田城にいた被官はわずかで、清定ら尼子軍は一揆軍相手に苦戦を強いられたようです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　4月14日、庄堺において尼子軍は一揆軍と衝突し、被官福頼五郎らが負傷する激戦となりました。さらに16日には上田・古川の両所で戦闘が起こって被官立原十郎左衛門尉らが負傷、19日には桜崎で戦闘が発生し女塚仲兵衛尉が負傷、野伏に死者が出るありさまでした。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　5月にはいって2日、三日市で戦闘となって多久三郎左衛門尉らが傷を被りました。その後13日、一揆勢は富田荘にはいって富田城を急襲しました。&lt;br /&gt;
　この前日、富田城の大木戸役（大手門の守将）であった下笠豊前守が持場を放棄して富田城を去っていたために、一揆勢は城門に殺到しましたが、清定自ら太刀をふるって押し返し、15人の首を討ち取ったといいます。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　この一揆は土一揆という体裁をもってはいますが、実際には松田備前守の後継者とされる松田三河守が首謀者であったと言われます。&lt;br /&gt;
　先の富田城大木戸役下笠豊前守が持場を放棄したのも、この松田氏による懐柔があったのかもしれません。下笠豊前守は先に国一揆を起こし、知行を差し押さえられた人物のひとりで、尼子氏への不満があったのでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　松田三河守がこのような行動をとったのは、清定と美保郷の領有問題で争っていたからでしょう。事の発端は、文明元年（1469）ないし2年のものと思われる四月二十六日京極持清書状です。&lt;br /&gt;
内容は、「美保郷内の福浦（松江市美保関町福浦）・諸久江浦（松江市美保関町諸喰）を松田三河守に遣わしたが、百姓中（在地の土豪）が起請文を作成して、両浦は美保関に含まれると訴えてきたため、両浦を美保関代官職を有する尼子氏の管轄下に組み込め」と命じたものです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　しかしながら松田氏が領有権を大人しく尼子氏に引き渡すはずもなく、両浦をめぐる争いが尼子氏との間に生じたのです。&lt;br /&gt;
　とはいえ尼子氏は守護を後ろ盾としており、在地土豪も尼子氏に従ったために、松田氏は不利となったようです。このため、松田三河守は一揆を扇動し、尼子氏に圧力をかけようとしたものでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　ともあれ、清定の奮戦によって一揆は鎮圧され、このとき富田城にあった守護京極政高は即座に清定に対し感状を発しています。&lt;br /&gt;
　そして尼子清定の出雲での活動は、この能義郡土一揆に関する感状を最後に史料から消えてしまいます。おそらくはこのころに死亡、もしくは隠居したのでしょう。&lt;br /&gt;
　なお、『陰徳太平記』などによると、文明16年（1484）に尼子氏が富田城を追放されたのち、漂白のうちに死亡したことになっています&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/sasaki_hitohisa/38844696.html</link>
			<pubDate>Tue, 27 Nov 2007 01:30:59 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		<item>
			<title>出雲争乱7</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　前回まで述べてきたように、出雲国内の争乱は尼子清定の活躍により収束しました。もちろんこのことが即尼子氏の出雲支配権確立を意味するわけではありませんし、応仁・文明の乱そのものは主戦場である京都においてまだ継続していたので、国内の諸領主と尼子氏の間にはなお不安定な関係が続いたようです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　一方で、中央では文明2年（1470）8月、京極持清が64際で病没しました。持清の嫡子勝秀はすでに他界していたため、その子孫童子丸が家督を継いで出雲以下の守護職に補任され、叔父政高（のち政経）がその後見となりました。&lt;br /&gt;
　しかし孫童子丸は病弱であったため、文明3年（1471）閏8月、政高は孫童子丸に代わって家督を継いで出雲・隠岐・飛騨三カ国の守護となり、さらに文明5年（1473）9月には近江守護を加えて京極氏の実権を握りました。&lt;br /&gt;
　なお、孫童子丸は政高の家督相続後まもなく死亡しています。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　文明6年（1474）、清定は嫡子尼子又四郎（のちの経久）を上洛させ、新守護京極政高に目通りさせるとともに、課せられている美保関公用銭5万疋のうち1万疋（100貫）を納めさせました。&lt;br /&gt;
　ここで又四郎は美保関公用銭について政高と減額交渉にあたったようで、「年額5万疋と定められていた公用銭を、文明7年から5年間4万疋に減額する」という返答をもらっています（『佐々木文書』）。またこのあと、尼子氏の出雲の所領について安堵の書状も受けています。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　この上洛の意味について、「清定が又四郎に守護京極氏の実力を打診させた」とする見解が一般的なようですが、これは「尼子氏が京極氏からの独立を図っている」という前提にたっての見解でしょう。&lt;br /&gt;
　しかしこの時点では、いまだ尼子氏の出雲支配には守護京極氏の存在が不可欠で、とても独立を模索する段階ではなかったのは間違いありません。先ほど述べたように出雲国内の政情はなお不安定で、尼子氏としては守護京極氏との関係を保っておくべき必要があり、又四郎の上洛は、「主家の実力打診」などというよりはむしろ主家との関係強化を狙ったものであると考えたほうが自然であると思われます。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　さてその後、守護京極政高は兄弟である政光・高清と対立を深めました。さらに京極氏の有力家臣である多賀氏の一族にも内紛があって、京極政光・高清・多賀清直（出雲守）らの反政高派は西軍六角高頼と結んだため、近江では西軍が優勢となりました。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　劣勢に立たされた政高、多賀高忠（豊後守）らは、この難局を打開するため、文明7年（1475）8月から10月にかけて、山門や小笠原家長らの支援を得て六角高頼に大反撃を試みました。しかし、結局は「出雲国人巳沢（三沢）以下数百人」が討ち死にするという大敗をこうむりました（『長興宿禰記』）。敗れた政高は、態勢を整えるために分国出雲に落ち延びることになります。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　なお、尼子又四郎は上洛後、そのまま京極政高のもとにとどまったといわれています。通説では、又四郎は清定から家督を譲り受けたと思われる文明11年（1479）ごろに出雲に帰国したとされていますが、東軍勢力である京極政高が守護代尼子氏のいる出雲に落ち延びているのに、西軍勢力の支配する中央に又四郎がひとり残っていたとするのは不自然です。&lt;br /&gt;
　したがって、又四郎はこの政高の出雲下向にしたがって、ともに出雲に帰ったものと思われます。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/sasaki_hitohisa/38817280.html</link>
			<pubDate>Mon, 26 Nov 2007 00:23:58 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		<item>
			<title>出雲争乱6</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　清定は、十神山城攻略と美保関制圧により、松田氏を圧伏させることに成功しました。しかし、これで出雲国内の騒乱が終わったわけではありませんでした。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　文明元年（1469）7月1日、大原郡は大東草尾にて戦闘が発生します。この戦闘は、大東牛尾三笠山城主、牛尾三河守が敵対勢力と衝突したもので、牛尾勢は多数の死傷者を出して敗北したようです。&lt;br /&gt;
　この敵対勢力というのが具体的に何者であったかはわかりませんが、先述したように牛尾氏は数少ない東軍京極氏についた領主であるため、西軍方の領主連合であったことは間違いありません。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　尼子清定はこの牛尾三河守のために守護京極持清に感状を要求するとともに、牛尾氏救援のため大東方面へ軍を展開しました。&lt;br /&gt;
　7月29日、野田原での合戦は激戦となり、被官人多数が負傷する事態となりましたが、8月4日中城進山では清定自らが指揮をとって敵陣を破り、久野次郎左衛門尉、下河原宗左衛門尉ほか出雲・伯耆の敵数十人を討ち取る戦果を挙げました。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　翌文明2年（1470）、今度は出雲国内の国人衆が国一揆を起こします。&lt;br /&gt;
　6月2日、守護京極持清は、清定に対して一揆を起こした国人諸衆の知行差し押さえを命じ、その結果、知行を差し押さえられた面々は、多胡宗右衛門尉、山佐五郎左衛門尉、佐方民部丞、飯沼四郎右衛門尉、下笠豊前守、野波次郎右衛門尉、および小境四郎左衛門尉の七人におよびました（『佐々木文書』）。&lt;br /&gt;
　これらの諸国人の本拠地は、飯沼氏・下笠氏が大原郡西北部、佐方氏が飯石郡北端、多胡氏が中海西岸、山佐氏が能義郡西部、野波氏が島根半島北端、小境氏が宍道湖西部北岸であり、かなり広汎な地域におよぶ一揆であったことがわかります。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　これらの領主相互を結びつけた直接の契機は当然ながら西軍山名氏方としての軍事的結集ですが、持清の書状によれば「近年」三沢氏惣領対馬守（為信）を中心とする国人が「一揆同心」して京極氏に「緩怠」し、京極氏が何らかの処分を行ったとしており、このことからこの7人の国一揆の背景には三沢氏を中心とする結びつきがあり、むしろこの一揆の首謀者は三沢為信こそが張本人であったと推測されます。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　ともかく、この一揆鎮圧によって国内諸領主の動きは抑えられたようです。そこで清定は、出雲国内の勢力と呼応していた国外の西軍勢力を叩くべく、伯耆に軍を向けました。&lt;br /&gt;
　文明3年（1471）8月21、清定軍は伯耆境松で西軍勢力と衝突して被官人二十数人が負傷するという損害を出しながらも数十人を討ち取る戦果を挙げました。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　しかし閏8月16日、今度は逆に山名勢が反撃に出て伯耆より美保関に侵入、尼子方は被官堀江三郎が討死したのをはじめ、多数の被官人が死傷しました。勢いに乗る山名勢は出雲に乱入して能義郡井尻の難波城に立て籠もります。&lt;br /&gt;
　9月21日、清定は多数の死傷者を出す激戦を制してこれを攻め落とし、村上民部、一条出雲ら多数の敵を討ち取りました。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　この井尻難波城合戦で出雲の西軍勢力はほぼ駆逐されたものと思われます。伯耆の山名党は結局月山富田城の奪取はできなかったのです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/sasaki_hitohisa/38726838.html</link>
			<pubDate>Thu, 22 Nov 2007 00:28:11 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		<item>
			<title>出雲争乱5</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　松田備前守は尼子清定の猛攻に対して少なからぬ被害を出しながらも、十神山城を守りました。このため清定は矛先を転じて西軍勢力を各個撃破する策に出ます。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　7月28日、清定は軍勢をわけて意宇郡岩坂城（松江市八雲町）、ならびに伯耆外波城（鳥取県）を攻撃、三沢氏の代官福頼十郎左衛門を討ち取りました。&lt;br /&gt;
　さらに下河原宗左衛門尉の守る出雲郷（八束郡東出雲町）春日城も攻撃しましたが、これは失敗におわり、神保与左衛門尉・西木彦左衛門らの被官を失いました。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　そして8月1日、清定は再び十神山城を攻撃するかたわらその支城を攻め、八幡・富尾の両城を陥れました。しかし肝心の十神山城の守りは堅く、このときもこれを落とすことはできませんでした。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　9月17日、清定は一隊を大原郡に派遣して馬田城を攻略し、自らは出雲郷に出陣して先に攻略できなかった春日城を落とすことに成功しました。さらに19日には湯郷の岩屋城の糧道を断ってこれを孤立させています。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　そして21日、清定は自ら采配をふるってみたび十神山城を攻撃、山名六郎や松田備前守のたてこもるこの城をついに陥落させたのです。&lt;br /&gt;
　ついで25日には美保関に出陣し、伯耆の山名党を蹴散らしました。まさに東奔西走、神出鬼没の大奮戦です。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　この健闘に対し守護京極持清は、恩賞として能義郡利弘荘、飯石郡宅和知行分、島根郡生馬郷、能義郡中須闕所分、能義郡舎人保内松田備前守買得田畠屋敷など、能義郡、意宇郡、島根郡で多くの所領を宛行い、また能義郡奉行職・美保関代官職などの諸職を与えました。&lt;br /&gt;
　これによって清定は、能義郡広瀬の富田城を拠点に出雲東部に大きな権力基盤を築くことができました。なかでも美保関代官職をえて、中海の制海権につづいて山陰の沿岸水運の拠点を押さえたことは、やがて年額500貫の納入を命ぜられていた公用銭（この中心は勘過料･帆別銭などの舟役）を緩怠横領してしまったように、その後の尼子氏の富強におおいに貢献したのです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　なお、尼子氏の美保関支配はこの美保関代官職補任によって論じられることが多いのですが、この補任は先述9月25日の美保関攻略による同地の軍事制圧を前提とするものです。&lt;br /&gt;
　尼子氏は軍事的制圧によって事実上美保関の支配権を獲得したものと思われ、この代官職補任は支配権の事後承認といった性格のものであったと思われます。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　ともあれ、尼子清定は困難な状況を克服して美保関支配権を事実上獲得しており、このことは松田氏に大きな打撃を与えることになりました。そしてこの後、松田氏の当主は松田三河守という人物になりますが、この人物は基本的には東軍京極氏方として行動しています。とはいうものの、尼子氏と松田氏の関係はなおしばらく不安定なものであったようです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　松田氏はこの後京極氏より法吉郷代官職に補任され、さらに美保関にもなおある程度の権益を保有していたので、松田氏の勢力を過小評価することはできません。しかしながら、尼子氏の美保関領有と安来荘進出によって、海上勢力としての松田氏の固有性は大きく損なわれたものと思われます。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　諸系譜によれば、のちの松田氏当主、松田誠保が清定の孫政久の娘婿になるなどし、毛利氏との戦いにおいても白鹿城の攻防などにおいて中心的役割を果たしています。この時期に至るまでに、松田氏の尼子氏に対する帰属性が非常に強固になっていたことが伺えます。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/sasaki_hitohisa/38650866.html</link>
			<pubDate>Mon, 19 Nov 2007 01:46:12 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		<item>
			<title>出雲争乱4</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　前回の更新からずいぶん間が空いてしまいました。申し訳ありません。&lt;br /&gt;
　けっこう忙しかったりするので、図を作成しようとしていましたが断念しました。&lt;br /&gt;
　そして、次回の更新もいつになるか分かりません…まぁ、気長にお待ち下さい。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　さて、前回まで、応仁の乱勃発当初の尼子氏の勢力基盤と敵対勢力である松田氏とその与党の勢力をみてきました。今回からは、具体的な軍勢の動きを追ってみたいと思います。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　何度も触れたように、出雲における争乱の発端となった戦いは応仁2年（1468）6月20日の松田備前守による「富田内庄堺村」攻撃です。しかし「佐々木文書」によれば、これよりさかのぼる応仁元年（1467）11月7日、東軍総帥細川勝元によって尼子清定の戦功が賞されています。&lt;br /&gt;
　この戦功というのが具体的に何かは分かりませんが、同月22日には守護京極持清より清定に対して「出雲の敵」征伐が命じられています。「出雲の敵」とは西軍山名方に属した諸領主を指すものと思われますから、11月7日の「戦功」というのも、西軍領主層との小競り合いがあった結果なのかもしれません。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　これ以降しばらくは西軍との戦闘はなかったようですが、あけて応仁2年の5月2日には能義郡土一揆が発生、二度にわたる富田城攻撃が行われました（『大日本史料』）。&lt;br /&gt;
　土一揆とはその名のとおり土民による一揆のことで、このときも一度目の攻撃では土民1600人が参加して行われたとされています。この人数からしてかなり大規模な一揆であったことがわかります。&lt;br /&gt;
　問題なのは続く第二回目の攻撃で、これは野武士600名によるものであったといわれ、くわえてこの攻撃には松田氏や三沢氏などの西軍領主層が参加していたといいますから、土一揆というよりは国一揆（国人による一揆）の様相を呈しています。&lt;br /&gt;
　このことからして、一度目の土民の蜂起も松田氏などの扇動によるものである可能性が濃厚であろうと思われます。&lt;br /&gt;
　松田氏ら西軍領主と尼子氏の直接の戦いの勃発は応仁2年6月20日ですが、ここで見たようにそれ以前から両者の争いは始まっていたのです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　そして、この争いが6月20日の松田氏の富田荘攻撃へとつながるのです。松田勢を迎撃した尼子清定は松田勢撃退に成功していますが、清水弾正ら数名の被官が負傷したといいますから、戦闘はかなり激しいものだったと思われます。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　この松田氏の攻撃を契機に、出雲は一気に戦乱の時代へと突入します。守護方への明確な敵対行動に出た松田氏に対し、清定は当然ながら反撃に出たのです。&lt;br /&gt;
　これは単に守護京極氏・東軍総帥細川氏の意向に従ったものというだけではなく、尼子氏にとっても自己の権益を公然と拡大できるチャンスでもあったのです。&lt;br /&gt;
　もっとも、孤立無援のこの状態での戦いは存亡の危機でもあったわけですが…&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　ともかく、反撃を開始した清定は7月1日、松田備前守の居城安来十神山城を攻撃しました。松田勢は出雲ならびに隠岐・伯耆の諸領主の軍を配してこれを迎撃、このために落城には至らなかったようですが、清定は松田氏連合の諸氏ならびに松田氏一族・被官人、隠岐や伯耆の国人ら百余名を討ち取る成果を挙げています。&lt;br /&gt;
　このあたりは前回も触れましたが、松田氏に与同する勢力がかなり広範囲にわたるものであったことが分かります。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　続きは次回にしましょう。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/sasaki_hitohisa/38451872.html</link>
			<pubDate>Sun, 11 Nov 2007 01:53:24 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		<item>
			<title>出雲争乱3</title>
			<description>&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-a2-af/sasaki_hitohisa/folder/1576520/14/36958414/img_0?1190017053&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_530_470&quot;&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　前回も触れたように、応仁の乱が出雲にもっとも緊迫した軍事情勢をもたらしたのは、応仁2年（1468）のことです。松田氏の富田荘攻撃がきっかけとなり、出雲は戦乱の巷と化したのですが、今回はこの松田氏を取り上げてみることにします。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　尼子氏の歴史に多少詳しい人なら、松田氏と聞いて白鹿城主松田誠保を思い浮かべるかもしれません。安来十神山城主松田備前守とは、まさにこの松田誠保とおなじ一族で、承久の乱の後に安来荘地頭職を獲得して出雲に下向した西遷地頭です。&lt;br /&gt;
　そして応仁の乱当時の松田氏は、中海水運を直接の基盤とする出雲最大の海上勢力として成長していました。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　松田氏の居城であった十神山城は、中海に突出した小高い山（「出雲国風土記」には「砥神嶋」とあるが、中世も島であったかどうかは不明）を要塞化した海城で、さらにその麓にあった安来荘には中海最大の港があり、まさに海上領主の拠点にふさわしい戦略的位置を占めていました。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　さらに『海東諸国記』には、応仁元年に李氏朝鮮に使者を遣わした人物として「出雲州見尾関処松田備前太守藤原朝臣公順」の名が記されています。この人物は富田荘を攻撃した松田備前守と同一人物と思われます。「見尾関」とは美保関のことですから、松田氏が美保関を実質支配していたことを示しています。&lt;br /&gt;
　しかし前回述べたように、美保関は守護京極氏の所領でした。したがって当時松田氏がこの美保関を支配していたとするなら、松田氏は京極氏から美保関代官職に補せられていたものと思われます。&lt;br /&gt;
　美保関は守護に納められる「美保関公用」の請負額年五百貫という数字が示すように、極めて重要な位置を占めていました。さらに、日本海水運の重要な拠点のひとつでもあり、この地を支配する松田氏が日本海水運に深く関わっていたことが想像できます。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　このほか、のちに松田氏は京極氏より守護領法吉郷代官職を命じられていますが、松田氏が以前からこの地になんだかの権益をもっていた可能性があります。&lt;br /&gt;
　また、尼子清定が松田氏との戦での賞として舎人保内の松田氏買取田畠屋敷や中須郷闕所分を得ていますが、これらの地域にも松田氏がなにがしかの権益を持っていたものと思われます。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　松田氏の戦力はこれだけではなく、西軍の伯耆守護山名教之の上洛中の留守を守っていた山名六郎の後押しもあり、山名六郎自身が援軍として出雲に攻め寄せていました。&lt;br /&gt;
　さらに、応仁二年七月二十八日京極持清感状に、尼子清定が討ち取った西軍方のものとして「田中左京亮、白紙帯刀、湯宗左衛門尉、綿貫兵庫助、綿貫与次郎、坂田掃部助、布弘弟、備前守親類被官人、伯州隠州国人等、百余人」とあり、松田氏が島根半島中東部から伯耆・隠岐両国にかけての非常に広範囲にわたる諸領主を糾合して連合軍を形成していることが分かります。&lt;br /&gt;
　そしてこの連合軍には「三沢氏代官」として福頼氏の名があり、出雲最大の国人勢力である三沢氏も援軍を派遣していました。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　これだけ広範囲の諸領主を結びつけることができた直接の契機は西軍山名方としての軍事的結集であって、先にあげた山名六郎の存在が要となっていることは間違いありませんが、現実にそれを支える共通の基盤は日本海・中海・宍道湖水運に他ならず、その最大の要衝である美保関を有する松田氏の存在は極めて大きかったのです。&lt;br /&gt;
　松田氏が連合軍の中核的存在となりえたのはこういった理由があったからでしょう。&lt;br /&gt;
　尼子清定は、その勢力拡大にあたって水上勢力をとらえようとしていた傾向があるようですが、その目的を達成するには松田氏打倒が不可欠であったのです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/sasaki_hitohisa/36958414.html</link>
			<pubDate>Mon, 17 Sep 2007 17:07:07 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		<item>
			<title>出雲争乱2</title>
			<description>&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-a2-af/sasaki_hitohisa/folder/1576520/35/36799435/img_1?1190016745&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_530_470&quot;&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　出雲国内が戦乱状態になったのは、応仁2年（1468）、松田備前守が富田への攻撃を開始したことがきっかけでした。以後、尼子清定はほとんど孤立無援といっていい厳しい状況の中で、松田氏ら海辺領主連合軍相手に戦い抜いたのです。&lt;br /&gt;
　今回は清定の戦闘経緯を追ってみる前に、尼子氏を支えた戦力基盤がどういうものであったのか、探ってみようと思います。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　尼子氏は京極氏の守護代ですので、当然ながら守護京極氏の権益と権限が尼子氏の戦力として機能した可能性があります。具体的に言えば、京極氏の所領とそれに属する土豪層の存在、守護方にとどまった国人領主層、および東軍が出雲に送り込む援軍の存在です。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　前回触れたとおり、守護方の領主は尼子氏のほかには赤穴氏、牛尾氏、三刀屋氏の三氏に限られたものと思われます。そして東軍の援軍として山名九郎らが送り込まれたようですが、これも前回述べたように、畿内の情勢を考えれば充分ではなかったでしょう。&lt;br /&gt;
　ちなみに『陰徳太平記』などの軍記物では、三刀屋氏は後に触れる三沢氏に次ぐ有力領主で、三沢氏同様反覆常なき国人として描かれています。しかし実際には、三刀屋氏は基本的に守護に従順で、三刀屋氏独自の行動というものはほとんど見られません。三刀屋氏がのちに尼子氏に反したのも、近隣領主と歩調をあわせた結果に過ぎなかったようです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　さて問題は京極氏の所領ですが、守護所富田荘をはじめ、美保関（松江市美保関町）、法吉郷（松江市法吉町）、立原（雲南市加茂町）、多弥郷（雲南市掛合町）などが確認でき、そのほかにもいくつかの守護権益が存在していた可能性があります。&lt;br /&gt;
　ただし、当時在地の土豪層は時に応じてかなり主体的な動きができるほどの行動力を持っていたことが知られます。したがって、土豪層の動向如何では、守護領といえども尼子氏の軍事基盤としては機能しなかったと言えるでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　このように、京極氏の守護権益はきわめて不安定なものであり、これのみで西軍諸領主と戦い抜くことはできません。尼子清定の戦いを支えた戦力はこの守護権益のほかに、尼子氏独自の軍事的経済的基盤が存在したと考えなければなりません。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　尼子氏独自の基盤とは、守護所富田荘内をはじめ京極氏から宛行われた「阿陀加江」（八束郡東出雲町）、「下今津」（安来市今津町）などの給地を中心として構成されたものであることは間違いありません。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　このほかさらに、尼子氏が出雲に下向して以降独自に掌握した在地小領主や土豪層の存在があります。&lt;br /&gt;
史料には尼子氏被官として「清水弾正」「神保与三左衛門尉」「福頼与五郎」「立原十郎左衛門尉」「多久三郎左衛門尉」などの名前が見えますが、これらの本拠地と推定される地域を勘案すると、尼子氏が掌握した在地勢力の分布は能義郡北部・意宇郡東部・大原郡北部、さらに宍道湖北岸に及んでいたことが分かります。&lt;br /&gt;
　もちろんこれがそのまま尼子氏の領域的支配を意味するものではありませんが、この範囲内に尼子氏の直接的な基盤が存在していた可能性は充分に考えられるのです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　尼子氏は、以前に述べたようにほかの国内有力領主を抑えるだけの圧倒的な力量を持っていたわけではありませんし、なによりその支配体制は守護京極氏の存在なしには成立せしませんでした。&lt;br /&gt;
　しかし、尼子氏が応仁の乱に入る以前の段階ですでに出雲の実勢力として、いち有力領主としての側面を築き上げていたことは確かなのです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/sasaki_hitohisa/36799435.html</link>
			<pubDate>Wed, 12 Sep 2007 00:46:19 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		<item>
			<title>出雲争乱1</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　応仁元年（1467）5月、世に言う応仁の乱が勃発します。&lt;br /&gt;
　この乱は、足利将軍家ならびに管領畠山・斯波両氏の家督相続争いに端を発し、細川（東軍）と山名（西軍）の二大勢力争いとからんで、天下を二分した大乱です。&lt;br /&gt;
　乱は文明9年（1477）年まで11年間もの間続いていちおうの終結を見ましたが、これ以降在地武士の勢力が強くなり、戦国動乱のきっかけとなったといわれています。&lt;br /&gt;
　いよいよ、世は戦国時代へと突入するのです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　さて、応仁の乱が勃発すると、以前から対立していた京極氏と六角氏はおのおの東軍と西軍に分かれ、京都や近江で戦闘を展開しました。&lt;br /&gt;
　当時の京極氏当主持清（生観）は、名僧横川景三から「三朝の元老、一代の異人」と評された傑物で（『補庵東遊続集』）、東軍中でも重きをなしていました。&lt;br /&gt;
　しかし、一方の六角氏の当主高頼も、若年ながら大乱中の奮戦ぶりによって「賊魁佐々木の勇、一世を蓋う」と言われたほどの勇将でした（『百衲襖』）。&lt;br /&gt;
　持清は六角氏の本拠である近江観音寺城を攻略することに成功しましたが、高頼はそれでも屈せず、甲賀、伊賀、大和、伊勢などを転々として抵抗を続けました。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　では、大乱当時の出雲はどういう状況だったのでしょう？&lt;br /&gt;
　出雲はいうまでもなく東軍京極氏の領国ですが、境を接する東の伯耆、西の石見はいずれも西軍山名氏の分国でした。&lt;br /&gt;
　このため、山名軍の動きと呼応して、出雲国内の伝統的国人が不穏な動きを見せていました。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　ところが、守護京極持清は先述のように六角高頼との争いで手一杯であり、領国出雲を省みる余裕はありませんでした。このため、出雲の戦いは守護代尼子清定ひとりに任されることになったのです。&lt;br /&gt;
　清定にしてみれば、これは尼子氏の勢力基盤を拡大する好機であったと言えなくもありません。とはいえ、状況はいうほど簡単ではなかったと思われます。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　このときの尼子氏の戦力がどれほどのものであったのかは後ほど検証してみることにしますが、前回までに見てきたとおり、京極氏の守護権限は守護代尼子氏だけでなく、他の諸氏にも時として分与されていたのです。そこから考えてみると、このときの尼子氏が出雲国内の他の在地領主を圧倒するほどの戦力を持っていたとは到底考えられません。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　尼子氏独自の戦力のほかには、東軍細川方からの援軍の存在や、京極氏に従う牛尾氏、三刀屋氏、赤穴氏など諸領主などもいたようですが、中央の事情からみても援軍が大規模だったとは思えず、従う在地領主もこれら三氏のみであったと思われます。&lt;br /&gt;
　このように、尼子氏はほぼ独力での戦いを強いられたのであって、好機というよりは存亡の危機に立たされていたというのが正直なところでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　尼子清定がこの危機をどのように戦ったのか、次回以降で見ていくことにしましょう。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/sasaki_hitohisa/36460993.html</link>
			<pubDate>Sat, 01 Sep 2007 09:56:49 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
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