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平凡な毎日に○あげよう!

吉本隆明

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戦後の60年安保、60年代の学園闘争には、多くの一般民衆、学生が立ち上がりましたが、それを可能としたのは、人々の心の中に強い“非戦”の意識があったからだと思います。
出来れば、今を、9条の真価を見つめ直す、良い機会としたいものです。




 

吉本隆明 『憲法第九条をどう考えるか』(春秋社「第二の敗戦期」より)

 九条問題に関しては、ぼくはこう考えています。

つまり平和憲法というような意味合いでの「平和」という言葉を使わないで、憲法の中の非戦条項というのが九条の主題だとみています。これは戦わないという条項なのであって、平和かどうかとか、平和の定義とは全然違うことだと思います。

九条の非戦条項というのは、ただ戦わない、つまり国と国との戦争でもって国際的に起こった問題を解決することはしないとしているわけです。それはぼくたちにとって、戦争で得したことなんか何もなかったわけですが、戦争をやって敗戦したことが唯一の収穫だと思っています。

ただし、このことでぼくは自分に対して、いくつかの付帯条項を持っています。自分で考えたことなので、これを人に通用させることでもないし、自分の自己納得にしかならないことだと思っています。

ひとつは、国と国との国際的な戦争というものには、侵略戦争と正義の戦争があるというような毛沢東流の考え方は取らないし、そういう考えはまちがいだと思っています。そういうことでは、ぼくはまったく恐縮しないことにしてきました。はっきりそれは違う、戦争自体を悪だといいたいと思います。

国際間の、国と国との間の戦争、それぞれの利害関係を含む紛争という、そのこと自体を戦争で片付けよう、解決しようというのは悪であるというべきです。

 


 

「思想家 吉本隆明さん 9条は先進的な世界認識」(東京新聞 2007年8月8日より)

 

つまり憲法九条はどの資本主義国にもどの社会主義国にもない、超先進的な世界認識なんだと思うんです。これは右か左かで論じたら全然狂っちゃうわけですよ。

 戦争では、弱い方の土地が戦場になって荒らされる。米国なんかかすり傷を負っただけで大騒ぎでしょ。本当の戦争なんか知らないんですよ。だから僕の理解の仕方では、うまい物は食ってないけど平和な暮らし方をしているうんと後進的な国家や社会、地域、アマゾン川流域の共同体みたいなところは多分、憲法九条に賛成してくれるはずですね。

 日本はそういう人たちと連携して「おれたちは米国とも中国やロシアとも違うよ」って国際的な広場で積極的に主張したらいい。そしたら憲法の非戦の考え方にとっては大きな力になると思います。今のように非戦条項を放り出したまま米国一辺倒っていうのが一番だめなやり方です。

 近代化の過程にある東洋諸国の中で、日本は文化的にも文明的にもあるいは産業的にも科学技術的にも、近代化はほぼ終わってます。だから僕に言わせれば「日本は考えどころだぜ、ここでまた西欧のまねしてちゃだめだぜ」って。金もうけに頭がよく動くヤツが得するような、ばかな社会をつくるまねをするなって思いますね。

 自分らの土地と天候と風俗習慣あるいは遺伝子的なものに一番適合したやり方を考えてみろよって思います。世界中のどこにも同志となる国がない特殊な国でしょ、日本は。
 

 

                                   ◇


                                  僕たちは戦わない AKB48
              
現在問題となっている『集団的自衛権』なるものの原点ともいえる自社さ政権下での動きを、以下、「八重洲レ
 
ター」吉本隆明の視点 (1995-1996)より。
 

政治・社会・経済をを讀む―「日米防衛協力のための指針」について- 吉本
 
隆明


 村山富市社民党委員長が首班だった連立内閣から自民党総裁橋本龍太郎首班の連立内閣に変わっ
た。
 
そこでじぶんの関心がどう変わったか自問してみた。おなじ自民・社民・さきがけの連立が下半身で、ち
 
っとも変わりないのだから、大きな相違があろうはずがないと言うほかない。だがもう少し微妙な気持の
 
変化をかんがえてみると、何となく関心がまえよりも薄くなったような気がする。村山首班のときには、彼

は以前社会党反体制派のときもあったのに何ということをするのかとか、何を言うのかとかいう反撥が
 
批判の気を起こさせた。橋本龍太郎首班では批判しようという意欲が起きるほどのひっかかりすら感じ
 
られない。内緒話では、彼の容貌は眼が煙ったようでのっぺりしていて、古典的な女ったらしの表情をし
 
ているなどと悪たれてみせるくらいが関心のせきの山だった。

 ところでそんな馬鹿話にふけっていてはいけないという強引さが、すこしあらわれてきて油断ならない

という感じになった。そのことを政治現象としてメモしておきたいとおもう。沖縄で駐留兵士たちによる

日本人少女の暴行事件がおこった
。たぶん今までもそれに類した事件は度々あったのかもしれない
 
が、今度の暴行事件は駐留基地の縮小や撤廃の要求にまで発展する沖縄地域民の抗議の運動にま
 
で発展した。この種の抗議運動はスケジュール運動家の先導で線香花火みたいに盛りあがって、すぐ
 
に消えてしまい、「はい次ぎ」ということで終ってしまうことがおおいのだが、今度の事件への沖縄県民
 
議の声には政党に先導されて腰をあげたというところからはみ出して、もしかすると進歩政
 
や市民主義運動が当惑してしまうかもしれない直撃な県民の声がわたしのような遠隔地のヤ
 
馬にも聞こえてき。また沖縄の行政の首脳の声のなかには、米軍基地の半分近く(約三十五%く
 
い)が民有地の強制接収地だということへの瞋りと、日本国内の米軍基地の大部分(約七十数%)が
 
縄に集中し、沖縄の県民が不自由をしのび、被害を蒙っている実情を知りながら、この不公平を是
 
正しようともしないで、犠牲を沖縄県民におしつけたままで恥じない日本政府にたいする瞋りと
 
が二重に含まれていて、この行政主脳(大田知事に象徴される)の瞋りが、並たいていのことで
 
は収まらない強固な本物だということが、橋本内閣の行政指令を拒否する態度のなかにあらわ
 
れていた


 
                           略 
               


わたしたちはその直後に行われた日米首脳会談で、アメリカ政府の責任者が謝罪の気持を公言
 
し、日本政府の橋本首相がそれ相当に強い抗議の意志を表示し、その成果として「普天間基
 
地」が廃止されることが決定し、基地兵員や施設を本土に移すという合議が成立して、まずはよ
 
かったということになったとおもってきた。

 ところが事態はその正反対のものだった。アメリカ政府がこの安保再確認の首脳会談で日本側に
 
求として提案してきたことは、日米が防衛協力することについて、日米防衛協力のための指針
 
(ガイドライン)」に記されている「極東」の地域の「有事」を「日本の周辺域」というように拡大し、
 
日本が侵略をうけたばあいの「自衛権」というところから「集団自衛権」ということに改めて、「日
 
本周辺地域」に起こったことすべてに集団的に「自衛隊」を行使するというように拡大しなくては
 
ならないということだった。

 橋本龍太郎首相は何の抗弁もせずにアメリカ政府のこの要請(指示といってよい)を受け入れ、五月
 
十七日(九十六年)に「日米防衛協力のための指針(ガイドライン)」をこの拡大解釈の方向に改
 
正することに決めた。そして「日本の周辺地域」というのを「日本に重大な影響を及ぼし得る中東
 
やマラッカ海峡、南沙諸島なども含まれる」というように拡張して解釈する見解をうち出した。も
 
ちろんこの「有事」の拡大も、「集団自衛権」をこの拡大された「有事の地域」へ適用できるという
 
解釈も、はっきりと憲法違反・第九条の侵犯にあたっている。

 さきの村山首相も自衛隊は合憲であるという言明を国家の予算委員会での答弁ひとつで決定してし
 
まい、カンボジアやルワンダに派遣して、他国の内戦に国連軍の一員として参加し死者と負傷者の犠
 
牲を仕出かしてしまった。この重大な憲法第九条を実質上無効にするような重要な決定を国民にでき
 
るだけ知らせないような形でやった。そして護憲派と称する知識人も国民の全般もこのことが何を意
 
味するのか受けとれないで、ぼんやりと気づかずに、眼の前を通りすぎるのを見送ってしまった。そして
 
いまも憲法は無傷のまま、今でも護憲などと言っている。この鈍感さはどうしようもないし、運用論だけ
 
で憲法の非戦の事項をつぎつぎに変えてしまう日本人の性格に根ざした政治家や知識人の狡
 
さもどうしようもない絶望感にかられる。わたし自身だって諦めの方が先に立ち、じぶんが諦めても当
 
分何ごとも起こるまいという安きを盗む気持を持っていることを匿せない。だが村山内閣がやったこと
 
は、もっと大穴をあけられる形で、橋本内閣でもやられた。日米首脳会談で「有事」の範囲を中東やマ
 
ラッカ海峡や南沙諸島にまで拡大し、「自衛権」を日本国が侵略を受けたときどうするかの課題か
 
ら、日本の利害関係がかかわるところならば世界中どこでもという範囲に拡大されてしまった。
 
これが沖縄少女にたいする暴行事件の見返りだという重大な変更が、国民にできるだけ眼を覚
 
まさせない既成の、また自明の事実のように行われてしまった。もちろん、この安保再確認という
 
形での変更をいい事だという受けとり方をする国民はいるかも知れない。むしろ大多数派をつくるほど
 
るのかも知れない。この数年来、自民のような最保守派から社会民主党の進歩派にいたる連立が成
 
立ち、共産党がシンパにつくようになってから、いつも重大な折り目のときに繰返されてきたことだ。ま
 
新聞、マスコミも宣伝機関として世論のようにそれに迎合してきた。

異を称えるためには多少の勇気を必要とするようにもなってきた。

 でも北朝鮮と韓国のあいだに境界線の小競り合いがあったり、北朝鮮が核弾頭ミサイルをもっている
 
疑いがあるとか、中国が核実験を繰返しているとか、中国本土と台湾のあいだに相互の示威的な武力
 
移動があったりすることが、「有事」であると貴方は思いますか? また「有事」にたいする範囲を「極東」
 
から日本の利益に関する事件が起こった世界中の全域にひろげるような事件だと思いますか? わた
 
はじぶんの戦争体験の反省に照してみて、こんなことは日本国にとって「有事」であり得るはずがない
 
思っている。それよりもアメリカを説得して軍事的に世界中のお節介の善意を押しつけるよりも、真っ
 
に核兵器の保有量を縮小し、廃止する音頭をとり、武力が物を言う国家「間」の価値観を無効だとす
 
る模範を示すようにしてもらうほうが、ずっと早道だと認識してもらうのがいいと思う。どっちが「現実的」
 
か「非現実的」か考えてみて欲しい。


                         ・・・以上・・・


結局、普天間基地撤去の空約束と引き換えに、「日米防衛協力のための指針(ガイドライン)」が改定さ

れ、「有事」の世界中への拡大、そして、そのための集団的自衛権の行使が是認されてしまったのだと
 
いうことでしょう。

 
沖縄の住民自身による直撃の抗議の声は、当時からはっきり示されていて、その思いは、現在でも全く
 
衰えていないことを、現在の沖縄が証明しています。

本土の私たちが目指すべき方向も明らかだと思います。

転載元転載元: 無心

過去の戦争を振り返る中で、戦争を回避する道を本気で考えようとする政治家は、今の日本にいるのでしょうか。
 

以下、吉本隆明氏の「小林よしのり『戦争論』を批判する」(1999年7月ぶんか社刊)より。

『戦争を回避する道は一つだけあった

 

――国民国家の戦争は、ある国民国家が、他の国民国家をギリギリの瀬戸際まで追い詰めない限り起こらない、と見るのが妥当だとすると、先の戦争も、日本はアメリカなどからギリギリの瀬戸際まで追い詰められたがゆえに起こしたということになりませんか?

 

吉本 ええ、そうです。僕はそう思います。だから、あの戦争が日本にとって必然的だったかどうかということでいえば、僕は必然的だったと思います。中国などに対して日本がやったことに、たとえ侵略的要素があったにしろです。

 だけど、当時、一つだけ、戦争を回避する道はあったと思うんです。それは、当時の日本国の責任者、日本政府の首脳が、アメリカ、イギリス、フランス、オランダといったアジアに植民地を持っていた欧米諸国の首脳たちよりも、もって高度な観点を持ちえて、事態に対処していれば、戦争を回避できたんじゃないかということです。これは難しいことではありますが、いくら〝ABCD包囲網〟で経済封鎖されても、欧米諸国の首脳たちを凌駕するだけの観点があったなら、つまり、欧米諸国の文明・文化というものや、欧米諸国の軍事力、欧米諸国の国民国家のありようというものを、さらに一段高い世界史的視野から眺められるだけの見識と器量があったなら、戦争は回避できたんじゃないかと思うんです。

 そういう一段高い視野から眺めれば、アメリカ、イギリス、フランス、オランダといった諸国は、それぞれここが弱点で、こういうところで妥協すれば戦争は回避できるといったことが見えてきて、抜け道はあったんじゃないかと思うんです。後進国の視野で見ている限りはダメです。それでは、後進国は先進国の優位をくつがえすことはできませんよ。

 当時の日本国の責任者、日本政府の首脳は、天皇も政治家も軍人も、そんな観点を誰一人持ちえていませんでした。ただひたすら、天皇制という「生き神様信仰」と、軍事国主義を信奉して、それでもって突き進んでいったから、戦争に突入しちゃったんです。今だって、日本政府の首脳は、高度な観点を持ちえていないという点では同じです。

 最近のことでいえば、アメリカはイラクに対し、当時の日本にやったのと同じようなことをやってきました。経済封鎖をしたり、軍事的圧力をかけたりして、イラクをギリギリの瀬戸際まで追い詰めていった。アメリカがやっていることは、半世紀前とちっとも変らない。でも、フセインの方もバカというか、ダメなんです。戦争中、日本の民衆が天皇制を絶対的に信奉していたように、イラク国内では、フセインも民衆の圧倒的な支持を受けているんでしょう。だから、強腰で無謀なんです。

 なぜフセインがダメかというと、後進国の視野しか持ちえていないからです。アメリカみたいな文明の先端にいる国、しかも軍事力も世界一という国から要求を突きつけられた場合、それをはねのける方法は一つしかありません。それは、アメリカ政府の首脳よりも、もっと高度な世界史的視野を持つということです。その高度な世界史的視野、観点から世界情勢を眺めれば、ここのところがアメリカの弱点で、こうすればアメリカの態度をやわらげることができるだろうとか、アメリカの要求のこの部分だけはのむべきであるとかいった判断が下せて、アメリカとの戦争を回避できるはずなんです。

 そうでない限り、後進国というのは先進国にやられっぱなしです。特にアメリカみたいな国が強硬に出てきたら、手を挙げるしかないんです。

 

 

               ・・・以上・・・

 

 

確かに、可能性はあったとしても、人材がいなかったのだと思います。

以前、周恩来-キッシンジャーの極秘対談を読んだことがありますが、両者の見識の広さ、確かさ、に驚きました。当時、米国は、ヴェトナム戦争の泥沼から何とか抜け出そうとしていましたが、それを可能にしたのが、この対談だったのでしょう。中国は、そのことで米国に貸しを作り、自らは、文革後の混乱を収束させ、世界の表舞台へ出ることが出来、今日のような大国としての立場を獲得するに至ったのだと思います。

 

今の日本は、戦争を回避するどころか、ますます米国の「対テロ戦争」に協力していこうとしいてるようで、先行きはかなり危ういのではないでしょうか。

9条の、戦争は悪、という先進的思想こそ、軍事大国の力の優位性を超え、世界の普通の国々からも支持されるのでは、と思うのですが。
ナショナリストや保守派たちのいう「日本国」とか「日本人」とは、歴史的にも、地理的にも、狭い範囲でいっているだけ。もっと広い範囲でとらえなければ、何も見えてこない、ということでしょう。
以下、吉本隆明氏の「小林よしのり『戦争論』を批判する」(1999年7月ぶんか社刊)より。
 
 
 

過去を探求する人は未来に通じる

 

――歴史をどこまでさかのぼるかで、「日本国」や「日本人」のアイデンティティが違ってくるということですね?

 

吉本 そうです。もっとさかのぼれば、人類がまだ魚類であったころとか、生物が誕生したころとかになります。人間の運動神経は動物的ですが、内臓には実は植物的要素も入っています。内臓は不随意筋で動いているんです。つまり、意識しないで動いていますからね。さらにさかのぼれば、無生物だったころもある。なんといっても、本体は宇宙のビッグバンですから。水素が結合してヘリウムになっちゃったとかね。

 

――人間の細胞内にあるミトコンドリアという小器官は母親からしか伝わらないのでもこれをたどると、〝人類の共通の母〟であるイブはアフリカにいた、という説もあります。そうだとすると、西洋人も東洋人も、ルーツは同じということになりますね?

 

吉本 もちろん、そういうことになります。西洋とか東洋とかといっているのは、インドが分水嶺ですけどね。言語的に見れば、インドから西へいけば西洋語を担うようになり、インドから東へいけば東洋語を担うようになります。

 人類が言語を持つようになったのは、数百万年前といわれていいます。そして、そこから中国語とか日本語とかいった民族語に分かれるようになったのは、十数万年前といわれています。その民族語に分かれるあたりのところまでは、遺伝子学的にもさかのぼれるんじゃないかといわれていて、僕らもそれを目指して探究しているわけです。

 というのは、声を発するのは喉仏から上なんですね。ヨーロッパ人と日本人を比較すると、鼻が長いとか短いとか、息の通りがちょっと異なるとかいった多少の違いはありますが、肉体的な構造はそうは違いません。だから、民族語は多様だといっても、そういう共通性を手掛かりにしていけば、民族語に分かれるあたりまではさかのぼれるんです。

 僕が追及したところでいえば、アイウエオといった母音の数は、民族語によって多い、少ないということはありますが、その母音の数の違いは本質的な問題じゃありません。結論的にいえば、民族語に分かれる前は、母音的な ( おん )の変化みたいなものが共通の言語だったんじゃないかと思うんです。

 

――「日本語」を「日本人」のアイデンティティの拠りどころとしようと思っても、そう簡単にはいかないということですね。日本語の起源もわからないことが多い。言語学者の大野 ( すすむ )が書いた『日本語の起源』という本によれば、日本語とタミル語とは共通性があるそうですから。

 

吉本 タミル語というのは、今の国名でいえばスリランカ、あの地方の言語です。それが日本語と共通性があるというのは、ある程度当たっていると思いますが、言語学者の中には、日本語とパプアニューギニアの言語に共通性があるという人もいます。あるいは、インドネシアの言語、フィリピンのタガログ語とも共通性があるという人もいます。旧日本語の中に、いろいろな言語が混じって入ってきているということじゃないでしょうか。

 

――そうすると、「日本国」や「日本人」ということを固定観念で安易にいってはいけない、もっと歴史を探究し、綿密に論じなければいけないということになりますね?

 

吉本 そうです。だから、ナショナリストや保守派たちが「日本国」とか「日本人」とかをいくら強調しても、それは、歴史的にも地理的にも、〝狭い範囲でいっているだけ〟ということになっちゃうんですよ。たとえば、縄文時代にまでさかのぼるだけでも――そこには、まだわからないことが一杯ありますが、もう少し広い範囲で、「日本国」とか「日本人」とかいったものが見えてくるということがあります。戦後、僕らはそういうことをずっと追究してきたわけですが、それは、視野を広げることになるんです。そしてまた、大事なことは、過去をさかのぼることが、実は未来を考えることにも通じるということなんです。

 過去をさかのぼって、事実がどうだったかを検証する。過去をさかのぼる方法がきちっと確立されれば、それは、未来を推測する方法に必ずつながるはずなんです。過去を探ると、人口がこのくらいのときは社会はこうで、人口がこのくらい増えたら社会はこう変わったとか、情報手段の発達がこのくらいのときは社会はこうで、情報手段がこのくらい発達したら社会はこう変わったとか、ということがいろいろ見えてきます。

 そういう過去の事実や変遷を踏まえて、未来を推測する。それが、未来を推測するための一番確実な方法なんです。国家についてもそうです。この先、国家がどうなるかを推測するためには、国家というものが、いつ、どういうふうに生まれ、どういうふうに変遷してきたのかということを知ることからはじめなければいけません。
 
「日本人」「日本の国」の意味するところが、普通の民衆と政治家の人たちと随分剥離している、と感じさせられる昨今ですが、その元は、このようなところにあるのかも知れませんね。
以下、吉本隆明氏の「小林よしのり『戦争論』を批判する」(1999年7月ぶんか社刊)より。
 
 

『歴史をさかのぼれば、違う「日本国」や「日本人」が見えてくる』

 

――国家が解体してしまうと、日本人としての拠りどころ、アイデンティティがなくなってしまうのでないか、という不安が一般の日本人の多くにあると思います。素朴な質問として、国家解体すると、民衆にとってはどんないいことがあるのですか?

 

吉本 「国家を開く」のは民衆ですよ。国家が解体すれば、まず、国家が存在しているために生じている階級や差別がなくなるということがあります。また、国家が解体すれば、関税障壁もなくなって、商品が自由に流通し、商品の価格も安くなるという経済メリットもあるでしょう。それから、現在あるような相互理解の障壁もなくなると思います。「俺は日本人だ」「俺はアメリカ人だ」と互いにいい合っているから、相互理解が進まないんです。国家の壁がなくなって、民衆が自由に往来できるようになれば、言葉ももっと通じるようになり、相互理解も進むと思います。

 

――「日本国」や「日本人」ということに、民族の誇りとか、価値とか、アイデンティティとかの基盤を置いているナショナリストや右翼たち、保守派たちは、「国家解体」ということには、断固、反対するでしょう。彼らからすれば、「国家解体」などを唱える輩は、それこそ「非国民」だということになります。

 

吉本 「国家を開く」のは、強制や強権によってではありません。「国家」を開くのは民衆自身であり、民衆がそれを必要とし、そして大多数の民衆がそれに同意したとき、「国家を開く」んですよ。

 それから、「日本国」や「日本人」ということについていえば、「我々は日本人である前に人間なんだ」ということは、半世紀も前から学生運動をやっていたような連中がいっていたことです。「あなたのアイデンティティは、日本人というところから出てくるのか?」といえば、そうじゃないでしょう。「日本人とかアメリカ人とかいう前に、まず一個の人間であるというところから、あなたのアイデンティティが出てくる」というのが本当じゃないでしょうか。「日本人のアイデンティティ」とか、「日本民族のアイデンティティ」とかいっても、「じゃあ、その前に人間ってのはなんなんだ?」「人間ってのは、自由で平等でなければならないという大原則はどうしてくれるんだ?」って聞いたら、石原慎太郎をはじめとするナショナリストや保守派の連中は答えることはできないでしょう。また、答えるつもりもないんでしょうけどね。

「日本国」とか「日本人」とかいう場合、あるいは、「日本国の伝統」とか「日本人の伝統」とかいう場合、そこでいっている「日本国」とか、「日本人」とかいうのは、たいていは奈良朝以降のことをいっていると思うんです。谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫といった文学者なんかの場合も、そうです。『万葉集』とか『古事記』以降のことでもって、「日本国」とか「日本人」とかいっているわけです。

 日本は温和な風土で、春夏秋冬の四季があり、人々は花鳥風月をめでて暮らしたという「日本国」や「日本人」のイメージというものは、奈良朝以降、さらに範囲を限定していえば、平安朝文化を土台に形づくられてきたものです。でも、奈良朝以前だって――あるいは、天皇制の起源である古墳時代以前という区切り方をしてもいいですけど、国家なんて存在しないずっとはるか以前から、日本列島に人は住んでいたわけです。

 それなのに日本のいわゆる知識人たちは、奈良朝以降のことでもってしか、「日本国」や「日本人」のことを考えないんです。それは、当然「おかしい」ということになりわけです。戦後、ハッキリしてきたことは、「日本人」とか「日本民族」とかいっているものは、奈良朝以前、あるいは古墳時代以前の、はるか昔から日本列島に住んでいた旧日本人と、あとで朝鮮半島や北方などからやってきた新日本人との混合じゃないかということです。大きくいっちゃうと、そうなるんです。

 フランスの文化人類学者レヴィ=ストロースが来日したとき、京都で講演をしたのですが、そこで彼は、「日本人ってのは何者です?」と質問されて、「大きくいえば、二つの人種の混合じゃないか」と答えたと聞きました。それを聞いて、僕は「やっぱり、レヴィ=ストロースはさすがだな」って思いました。

 旧日本人と新日本人を比較すれば、謎があるのは旧日本人のほうです。わからないことがたくさんありますが、旧日本人の要素が多いとされているのが、琉球やアイヌの人たちなんですね。そして、琉球やアイヌの人たちと似た遺伝子的要素を持っているのが、南北アメリカの原住民やアフリカ人なんです。そこに共通する一番顕著な特徴は、T細胞の白血病遺伝子のキャリアが多いということです。琉球やアイヌの人たちの遺伝子と、韓国や中国の人たちの遺伝子とは似ていないんですよ。

 

――旧日本人というのは、縄文人のことですか?

 

吉本 縄文人と、それから弥生中期くらいまでの人たちでしょう。そのあとは、いろいろなところから日本列島に人がやってきています。

 

 

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