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現在、問題となっているウクライナですが、ロシアの影響が強いその東部は、ロシア革命初期に、農民主体の自由地区(アナキズムに基づく自由主義的なコミューン)が実現され、およそ700万人の人たちが暮らしていた場所でした。
その指導者が無政府主義将軍と呼ばれたネストル・マフノ(1888年10月26日〜1934年7月25日)で、その地区は、その名にちなみ、マフノシチナと呼ばれましたが、当時、アナキストの大杉栄も自分の子どもをネストルと名付けています。
マフノの展開した農民アナキズム運動は、ウクライナ地方から白軍を撃退すると共に、権力主義的・独裁的・農民蔑視のボリシェヴィキとも最終的に戦わざるを得なくなり、マフノのパルチザン軍は敗れ、マフノはパリに亡命しました。
以下、ウィキより。
略
1918年、「ナバト」(警鐘の意)の名で知られる最初のアナキストの会議において決定されたのは次の5つの指針であった。
これらの目標は明らかにボリシェヴィキのそれとは対立するものだった。さらにアナキストたちは自身のシンボル・カラーとして伝統的な黒を採用し、白い帝政主義者にも赤いボリシェヴィキにも反対を表明した。略。
発展と特徴
1918年11月から翌年6月にかけ、マフノ主義者はウクライナの農民と労働者によって運営されるアナキズム社会の確立を成し遂げた。彼らの支配領域はベルジャーンシク、ドネツィク、アレクサンドロフスク(現在のザボリージャ)、エカチェリノスラフ(現在のドニプロペトロウシク)まで広がった。
マフノは1936年の著書『ウクライナのロシア革命』で次のように述べている。
「村々の農業の大半は、労働者のことを理解した農民によってなされていた。コミューンは第一に平等と連帯に基いて組織され、メンバーの誰もが、男女問わず、完全な良心に基いて共に家事に勤しんでいた。(中略)作業計画は全員が出席する会議で決められ、彼らは自分たちがなすべきことを正確に知っていた」
黒軍の指導者たちによれば、マフノ主義者が自由を社会正義の到達点であるとして掲げた目標に則って、社会は再編されたという。教育はスペインの自由主義的教育者であるフランシスコ・フェレルの原則を踏襲し、経済は作物や畜産物を農村と都市の間で自由に交易するというピョートル・クロポトキンの理論に基づいていた。
マフノはボリシェヴィキを独裁者と呼び、「(中略)強制的で権威主義的な懲戒機関」にも反対し、さらに「言論、出版、集会、結社その他の自由」を求めた。マフノ主義革命と秘密警察の連携は宣言によって禁じられ、それに類するすべての民兵組織や警察組織は自由地区の領内では非合法化された。
◇
ボリシェヴィキの秘密警察出のプーチンが、いまだにウクライナの民衆を苦しめている現在でしょうか。
まだ100年もたたない出来事ですが、700万人が暮らしたにも関わらず、マフノフシチナについて、今回のウクライナ関連のニュースでも全く触れられません。
歴史は勝者によって作られるのが常、ということなのでしょう。
しかし、ウクライナの人たちは、いまもマフノとその運動を誇りに思っているといわれます。アナキストのクロポトキンの名がつけられた都市が、いまだにロシア南西部にあることからも、決して少数の行動ではなかったということでしょう。
本当の自由を求めること、すべてはそこから始まり、そこへ帰結するのだと思います。
マフノ初期のビラより
「勝利か死か──歴史的瞬間としての現在、これこそがウクライナの農民が直面している問題である。だが、われわれの全てが死ぬことはありえない、われわれは余りにも数が多いからだ、われわれは──人類そのものだからだ。それゆえ、われわれは勝つだろう。だが、これまでのように、新たな主人に自分の運命をゆだねるために、われわれは勝つのではない。そうではなく、自分の生活を自分自身の意思、自分自身の真実によって建設するためにこそ、われわれは勝つのだ」
エスペラント語ノウクライナ革命歌
MAĤNOVŜĈINO- ESPERANTO
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