無心

平凡な毎日に○あげよう!

藤圭子

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藤圭子さんの一周忌。

 
 藤圭子さんが亡くなって、はや一年経ちました。
 
その間、娘さんのひかるさんがイタリア人の方と結婚する、という嬉しいニュースがありました。
 
 
[2014/02/03] ファンの皆様へ、マスコミ関係者の皆様へ
近々、結婚することになります。
 
結婚式などを静かに済ませた後にお知らせできればと考えていましたが、既に問い合わせがあり噂になっているようなのでこのタイミングでご報告させていただきます。
 
自分でも意外でちょっと笑ってしまいますが、相手はイタリア人の男性です。これ以上ないほど「一般の方」なので、彼や彼の家族の安全のために、プライバシー権を侵害する実名報道などは控えていただきますよう、心よりお願い致します。
 
暖かいご支援、ありがとうございます。心配をかけることが多くてごめんなさい。相手の男性は根が誠実で多くの友人に愛される好青年です。ご家族は、漫画に出てきそうな明るく賑やかな大家族です。私もいい年なので、静かにお見守りいただけたらこれ幸いです。
 
2014
23
宇多田ヒカル
 
あと…喪中であるため、結婚を延期すべきか悩みましたが、母との最後の会話の中で彼の話をした際、「こんなに嬉しそうな母の声を聴くのは何年ぶりだろう」と思うほど喜んでくれていたので、きっと母も応援してくれてると信じて予定通りに結婚を進めることにしました。
 
 
 
[2014/05/24] 結婚しました!!
結婚しました!!

感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。
 
 
 
イメージ 1
 
 
                      ◇
 
 
圭子さんにも彼のことは伝えられていて、とても喜んでくれていた、とのことなので、本当に良かったと思います。
きっと、幸せな思いを胸に、旅立たれたのでしょう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 圭子さん、中学2年の時の詩


 昨日の町が遠くになって
 明日の町が近くになる
 私はいつも
 祈るの
 こんど行く町は
 絵本で見たような
 夢のある町でありますようにって……
 
 そしてお父さんとお母さんが
 明るい笑顔を見せてくれますように……
 外は冷い木枯しの音
 うすい布団にかじかんだ私は
 ひとり
 父母の帰りを待ちわびる
 
 ひとつ……ふたつ……みっつと
 かぞえながら
 私はいつの間にか眠っていた
 夢の中の楽しい町をさまよいながら……

 
 
 
 16才頃の詩

『誠実ということ』


 自分に嘘をつかないで

 誠実に生きて行きたい

 たとえ泥まみれの人生にだって

 小さな遊びを見つけたい

 私は私なりの手さぐりの

 信念ではあったが

 青春をせいいっぱい生きて来たつもり

 そしてこれからもそうありたい

 だけど世の中は思いどおりには行かない

 淋しいことだけど…・

 だから誠実に生きて行きたい

 泥まみれになっても

 傷だらけになっても


 
 
 圭子さんは、父親に殴られても、決して泣かず、また、賃金を払わない興行主に抗議に行って半分払わせたこともあった、といいます。
 全共闘世代の私たちに彼女の歌がしみ込んできたのは、そういう彼女のまっすぐな性格、そして、何よりも、自分らしく生きたい、という強い思いが伝わってきたためだったのだと思います。


 ひかるさんが良く理解されているように、藤圭子さんは・・・とても怖がりのくせに鼻っ柱が強く、正義感にあふれ、笑うことが大好きで、頭の回転が早くて、子供のように衝動的で危うく、おっちょこちょいで放っておけない、誰よりもかわいらしい人・・・だったのでしょう。
 
 
 
 藤圭子さんの歌が、圧倒的に支持されたあの時代、確かに暗かったとは思いますが、今の明るさは、一体どこへ向かっていくのか。
「アカルサハホロビノ姿デアロウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。」(太宰治 『右大臣実朝』)
 
 
 
改めて、藤圭子さんのご冥福をお祈りします。
 
 
 
 
 
         
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宇多田ヒカル
Show Me Love (Not A Dream)

歌詞(抜粋)
 
 
抑え込んだ其れは消えず
湖の底へゆっくりとまた沈んでく


紫の信号が点灯(ひか)って思考停止
不安だけが止まらない

私は弱い だけどそれは
恥ずかしいことじゃない

実際 誰しも深い闇を抱えてりゃいい
に病んで、もがいて、叫んで叫ん
痛みの元を辿って Show me love
元を辿って Baby show me love
It's all in my head
 Can you show me love
It's all in my head
 Not a dream



実際 どんなに深い愛も 完璧じゃない
自分でしか自分にしてあげられない
自分を認め courag Show me love
める courage Baby show me love

実際 夢ばかり見ていたと気付いた時
初めて自力で一歩踏み出す
私の内なるパッセージ
内なるパッセージ
It's all in my head
It's all in my head
 
 
 
流星ひとつ
 
ノンフィクション作家の沢木耕太郎が、34年前、引退直前の藤圭子にインタヴューした作品。当時、書き上げたものの、様々な理由から出版をとりやめたものを、藤圭子の死を契機に、今秋発売することとなった。
 
 
 
沢木耕太郎に初めて会った日に、「もうやめようと思うんだ」と語った彼女は、沢木を信頼し、当時の自分を率直に語ったのだろう。歌への思い、引退の理由・・・。
 
 
沢木のいう、「輝くような精神の持ち主」「“心”のこのようにまっすぐな人を知らない」という28歳の藤圭子、読むうちに、彼女の内面が、見事に浮かび上がってくる。
 
 
「あたしはできないんだ。・・・心の入らない言葉をしゃべるのって、あたし、嫌いなんだ。」
 
「考えるようになると、人生って、つまらなくなるんだよね。・・考えないにこしたことはないんだよ。」
 
「嘘つくのなんていやだって頑張ったんだけど、それは通らなかったの。・・・そのことは、ちょっとつらかったなぁ。」(年齢を一つごまかしてデビューさせられたことについて)
 
「好きな男の人に体をさわられると気持ちがいいように、ほら、こうやってつねれば痛いって感じるような、歌というのは、心を、さっとさわるんだよね、あたしの胸の中を、ね」
 
 
 
 
 
私たち全共闘世代にとって、藤圭子は、やはり、特別な存在だった。
「新宿の女」の出だしを聴いただけで、なぜあそこまでひきこまれたのだろうか。
デビュー当時、彼女は、どのような気持ちで歌っていたのだろう。
 
 
   私が男になれたなら 私は女を捨てないわ
 
   夜が冷たい 新宿の女
 
「あの歌はね、本人が余計なことを何も考えず、ただの歌と思ってうたっているところに、いいとこがあったと思うの。」
 
 
 
「女のブルース」について。
 
    女ですもの 恋をする
   女ですもの 夢に酔う
   女ですもの ただ一人
   女ですもの 生きて行く
 
「初めてこの歌詞を見たときは・・・震えたね。すごい、と思った。衝撃的だったよ。」
 
   ここは東京 ネオン町
   ここは東京 なみだ町
  ここは東京 なにもかも
  ここは東京 嘘の町
 
「実に単純な言葉を繰り返し使っているだけなのに、少しずつ情感が盛り上がっていく。演歌の歌詞って、不思議な力があるね。・・・これを歌うとき、聞いている人に、四つの東京を見せることができる、と思ったもん。」
 
 
当時の引退の理由について。
 
 
「もう・・・昔の藤圭子はこの世に存在してないんだよ。喉を切ってしまったときに、藤圭子は死んでしまったの。いまここにいるのは別人なんだ。別の声を持った、別の歌手になってしまったの・・・・」
 
「あたしのそれまでの歌っていうのはね、意外かもしれないんだけど、高音がいちばんの勝負所になっていたの。低音をゆっくり絞り出して・・・高音にひっぱりあげいてって・・そこで爆発するわけ。・・・ところが、どこにも引っ掛からないで、スッと出て行っちゃう。前のあたしと比べると、キーンとした高音になってしまったんだよ。・・・人の心にも引っ掛からなくなってしまった・・・」
 
 
これからについて。
 
 
「勉強しようと思うんだ、あたし。二十八にもなって、遅いかもしれないけれど、やってみようと思うんだ。・・・でも、そんなこと、人には言えないでしょ、恥ずかしくて」
 
「藤圭子をやめたいんじゃない、歌をやめたいだけなんだよ。藤圭子であるかぎり、何をしようと変わらないはずだよ」
 
 
 
何も考えずにただ歌っていた・・・という藤圭子は、そのことによって、その歌が人の心を打つことを知っていた、やはり、一流の歌手だったのだと思う。
そして、情緒性を排した藤圭子の歌が、当時の、未来への希望を絶たれた私たち全共闘の学生たちに圧倒的に受け入れられたのだろう。
 
その後、藤圭子の歌の印象が変わってしまったとは感じていたが、時代の変遷や曲調の変化、と漠然と受けとめていたが、まさか、喉の手術できれいな声となってしまったことが、藤圭子という歌手としては致命的だったとは・・・。
確かに、聞きなおしてみると、やはり、初期のものはとてもインパクトがある。
 
 
 
今年、このインタビューの34年後に、彼女は衝撃的な自死を遂げることになった。
28歳の藤圭子を知っている沢木氏は後書きで
「私には信じられなかった。私が知っている藤圭子は自殺するとは思えなかったからだ。たとえ死の誘惑に駆られることがあっても、生の方向へ揺り戻すことのできる精神の健康さを持っているはずだった。」
と語っている。
 
しかし、残念ながら、この本の中にこそ、彼女が自死へ至った原因が示されているのではないだろうか。
 
私は、コンプレックのかたまり、という。 
いろんなとこで泊めてもらったり、世話になったりして・・流しだってなんだって、芸をやってそれでいくらかのお金をもらって、生きて行くわけじゃない。・・・子供の頃からずっとそうじゃない。やっぱり恥ずかしかかったんだろうね。近所で歌うのはいやだったから・・恥ずかしかったんだろうね。人の世話になって生きているっていうのが。いやだなあ、恥ずかしいなあ、と思ってたんだろうね。」
今のような憧れの対象となる以前の、芸能を生業とする人たちのルーツの意識を内包していたのだろう。
 
・・・あなたの眼って、いつもキョロキョロと小さくうごいているんだよね、小さな動物がおびえているように。
「そう、自分でもどうして動いちゃうのかわからないけど、無意識になっていると動いちゃうんだ」
・・・あなたは、もしかしたら、お母さん以外に、馴れた人間がいないんじゃないだろうかなあ。恐ろしいものは、何もなかった?
「それはあったよ」
「恐いもの、確かにあったよ、小さい頃。いまだって、恐いけど、別々に住んでいるから忘れることができるというだけのこと。恐かったんだ、とても恐かった。あたしは、お父さんが、ほんとに恐かった・・・」
「カッとすると、何をするかわからない人なんだ。怯えてた。子供たちはみんな怯えてた。お母さんも、みんな怯えてた。しょっちゅう、しょっちゅう、殴られっぱなしだった・・・」
 
 
 
父親についてはほとんど語ることのなかった藤圭子だったが、沢木氏のインタヴューの中で、初めて本心を語っている。
小学4年までの記憶は全くない、という彼女。
胎児期、幼児期、の記憶は、若い頃は、そのエネルギーで表に出てこなくても、いつも無意識下に存在しているのだと思う。その部分だけを消すことは出来ない。薬での対症療法で誤魔化すしかないのだろうが、それをしなければ、やはり、悲劇的な結末に至るのではないだろうか。
沢木氏の感じた「透明なエネルギー」は、歳を経る中で、徐々に失われていったのだと思う。
 
 
「あたしのいちばんのファンはお母さんなの。・・・お母さんの姿が見えると、ジーンとして、歌いながら胸が熱くなっちゃうんだ
 
母親のためにも、何とかその環境から逃れようと努力し、歌手「藤圭子」が誕生したが、、やはり、出自そのものから逃れることは出来なかったのだろう。
 
 
 
ヒカルさんが、母親と同じような道をたどっているのでは、と心配する向きもあるが、少なくとも、ヒカルさんは、5才頃までは両親に愛情を持って育てられ、深い傷を負ってはいないと思うので、これから、さらに才能を発揮していってくれるのでは。
 
 
 
  何処で生きても 風が吹く
  何処で生きても 雨が降る
  何処で生きても ひとり花
  何処で生きても いつか散る
 
「ほんとに・・・どこで生きたって、いつか散るんだよね・・・」
 
 
 
 
 
私生活上の結婚、離婚の時期と重なってしまったため、彼女が、もっと歌いたかったが、歌うのを止めて殺してしまった、と悔やんでいた「恋仁義」と「別れの旅」を。
 
 
                           恋仁義
 
 
 
 
 
 
  
 
                              別れの旅    
                               
                               
                   別れの旅
 
                                    作詞:阿久悠
                                    作曲:猪俣公章
                                    
                                    夜空は暗く 心も暗く
                                    さびしい手と手 重ねて汽車に乗る
                                    北は晴れかしら それとも雨か……
                                    愛の終わりの 旅に出る二人


                                    終着駅の 改札ぬけて
                                    それから後は 他人になると云う
                                    二年ありがとう しあわせでした……
                                    後見ないで 生きて行くでしょう
                                    生きて行くでしょう
宇多田ヒカルさんが、再びコメントをご自身のウェブサイトで発表してくださいました。
以下、Hikk’s WEBSITE様より。
 
 
09.05(THU) 09:44
 
 
藤圭子を長年応援してくださった皆様へ

亡き母に代わって、皆様への感謝の気持ちを述べさせてください。長年の応援、ご支援、ありがとうございました。

今なお母の心配をしてくださっている方々にお伝えしたいことがあります。

一連の記事で母の本名が誤って報道されていました。阿部純子ではなく、宇多田純子です。父と離婚後も、母は旧姓の阿部ではなく宇多田姓を名乗ることを希望し、籍も父の籍においたままでした。夫婦だとか夫婦ではないなんてこと以上に深い絆で結ばれた二人でした。亡くなる直前まで、母は娘である私だけでなく、父とも連絡を取り合っていました。父は、母が最後まで頼っていた数少ない人間の一人です。

それらの事実をふまえた上で新宿警察署は、母の遺体の本人確認と引き取りを父が行うべきと判断したものと思われます。当日新宿警察署に行ける状態ではなかった私に代わって、辛い思いをしながらも、父はこの役割を果たしてくれました。

母の遺体との面会を希望された方もいらっしゃいましたが、やむなくお断りさせていただきました。この場を借りてお詫び申し上げます。母の気持ちを考えた上での、喪主としての私の判断でした。

様々な情報(正確ではないものも多分にあります)が錯綜する中、葬儀はなく火葬のみという報道を耳にし、疑問を抱かれている方や、母のことを案じてくださっている方もいらっしゃるかもしれません。遺書はなかったと報道されていますが、今年の始めにしたためられた遺言書はありました。他の解釈の余地の無い、母らしい、非常に率直な遺言書です。その遺言書の内容に基づき、出来る限り母の意向に沿うべく精一杯の弔いをしています。

母は、身内や知人の葬儀には出席せず、自分の時間、自分のやり方でお祈りを捧げる、というポリシーの持ち主でした。葬儀や告別式といったイベントを好むような人ではなかったことを、母をよく知る者、母のためを思う方なら、ご理解してくださることと思います。

私も藤圭子のファンでした。今も、この先もずっとファンであり続けます。


平成25年9月5日 

宇多田ヒカル
 
                                 ◇
 
 
マスコミが勝手な推測で情報を流す中、私たちファンに、しっかり、事実を伝えてくれたのだと思います。
ほぼ想像通りでしたが、阿部純子ではなく、宇多田純子として亡くなられていたのですね。
私の中では、そのことで、すべて納得できたように思います。
ヒカルさんの将来を心配する方もいますが、冷静に、暖かく、自分の母親をみつめることが出来る彼女に、その心配は無用と思います。一番大切なのは、幼少期の過ごし方と思いますが、お母様が不安定な時期にも、きっとお父様がしっかりカバーされていただろうことは、前回と今回の文面からも明らかだと思います。
 
ヒカルさん、コメントを発表して下さり、ありがとうございました。
 
 
 
 
                              1996 天国
 
 
 
 
                                                  宇多田ヒカル・母藤圭子を語る!
 
             藤圭子さんとヒカルさんがデュエットで歌っている「ゴールデン エラ」
             1996年に出されているようなので、ヒカルさんは14才くらいでしょうか。
             ミラクルヒカルand ケイコさんがうたってくれてるようですね。
             
 
 
 
 
                                                               ゴールデン・エラ
 
 
 
 
 
          ヒカルさんのデビュー曲「Automatic」を初めて聞いたのが、内村さんの始めた
          コント番組「笑う犬の冒険」でした。エンディングで流れていましたが、歌詞も斬新、
          メロディーも軽快で、PVも印象的でした。まさかのヒカルさん本人の登場。初めて
          見たヒカルさんの可愛さに感動しました!
          以下、You tube 様より。
 
                   1999  宇多田ヒカル 「笑う犬の冒険」に出演
 
               オセロ中島さんの芸人としての才能もいかんなく発揮されてますね。
宇多田ヒカルさんが、辛い状況の中、オフィシャル・サイトhttp://www.emimusic.jp/hikki/
でコメントを発表してくださいました。
 
08.26(MON) 11:50           8月22日の朝
8月22日の朝、私の母は自ら命を絶ちました。

様々な憶測が飛び交っているようなので、少しここでお話をさせてください。

彼女はとても長い間、精神の病に苦しめられていました。その性質上、本人の意志で治療を受けることは非常に難しく、家族としてどうしたらいいのか、何が彼女のために一番良いのか、ずっと悩んでいました。

幼い頃から、母の病気が進行していくのを見ていました。症状の悪化とともに、家族も含め人間に対する不信感は増す一方で、現実と妄想の区別が曖昧になり、彼女は自身の感情や行動のコントロールを失っていきました。私はただ翻弄されるばかりで、何も出来ませんでした。

母が長年の苦しみから解放されたことを願う反面、彼女の最後の行為は、あまりに悲しく、後悔の念が募るばかりです。

誤解されることの多い彼女でしたが… とても怖がりのくせに鼻っ柱が強く、正義感にあふれ、笑うことが大好きで、頭の回転が早くて、子供のように衝動的で危うく、おっちょこちょいで放っておけない、誰よりもかわいらしい人でした。悲しい記憶が多いのに、母を思う時心に浮かぶのは、笑っている彼女です。

母の娘であることを誇りに思います。彼女に出会えたことに感謝の気持ちでいっぱいです。

沢山の暖かいお言葉を頂き、多くの人に支えられていることを実感しています。ありがとうございました。

25年8月26日

宇多田ヒカル

 
 
また、照實さんのメッセージを、以下、J-cast ニュース様より。
 
出会った当時から「感情の不安定さ」があったようだが、「心を病んでいるというよりも、類い稀な『気まぐれ』な人としか受け止めていませんでした」といい、「僕にとっては十分に対応出来る範囲だ」と考えていたという。
しかしヒカルさんが5歳ぐらいの時から、照實さんの母親に対しても「攻撃的な発言や行動が見られる」ようになり、「光(編注:ヒカルさんの本名)と僕もいつの間にか彼女にとって攻撃の対象」になったが、攻撃した直後にはまた感情が変化し、いつも数分後は「ゴメン、また迷惑かけちゃったね」と謝ってきたという。
病院での治療を勧めると、照實さんへの不信感を抱かせることになり、「結果、本人が拒絶し続けた治療が成されないまま、彼女の苦しみは年を追うごとに重症化したものと思われます」。
ここ十数年、圭子さんは海外を頻繁に旅していた。「そのような環境の中、光と僕には昼夜を問わず、予期せぬ時間に電話連絡が入り、『元気?』という普通の会話が交わされる時もあれば心当たりのない理由で罵声を浴びせられる時もあり、相変わらず心の不安定さを感じさせられてとても気がかりでした」
そして、「僕が純子と会話をしたのは今年の8月14日でした」といい、「珍しく明るい口調で、元気そうな純子の声」で、約8分間に渡り「世間話を含め、お願いごとを何件か受け、了承」したという。
 
 
                                     ◇
 
 
22年11月に、藤圭子さんの母・澄子さんが亡くなった時、圭子さんは、葬式にも出なかったと話題になり、気がかりではありましたが、18年のインタビューで、24時間頭痛がし、体中痛い、と言われていたようなので、そのころ既に病状はかなり悪化していたのだと思います。
私の身内にも「心」の病を負った人がいますが、幼少期の傷は、若いころは隠れていても、年を経るにしたがって、表に出てくる場合があるようで、完全に修復するのは難しいと思います。せめて、対症療法で、安定剤や睡眠薬で進行を抑えられれば、徐々に良い方向に向かうことも可能でしょうが、圭子さんのように本人が医者へ行かない場合、周りの人間はなすすべがないと思います。
ヒカルさんも、照實さんも、後悔の念はあるでしょうが、最大限、圭子さんのために尽くして下さったと思いますし、よく、そのような環境の中で、活動されてこられたと思います。
 
 
 
                  【追悼・藤 圭子さん】
            1998.11.5.(平成10年)放映分
       1998年12月、宇多田ヒカル「Automatic/time will tell」でデビュー
                                          
 
何日か前見た動画ですが、とても闊達にしゃべる圭子さんが、ご両親の話題はやはり避けているようなのは、やはり、不幸な子供時代だったのではないかと思います。(澄子さんとは、20年前に金銭トラブルで絶縁していたようです。)
私は歌手「藤圭子」のファンでしたが、人間「阿部純子」については、殆ど何も知らなかったのかも知れません。
 
 
以下、ウィキより。
藤圭子
幼い頃から浪曲歌手の父・阿部壮(つよし)、三味線瞽女の母・竹山澄子(2010年に死去。享年80の門付に同行。旅回りの生活を送り、自らも歌った。
勉強好きで成績優秀だったが、貧しい生活を支えるために、高校進学を断念。
 
門付
門付の発祥の根本には、季節に応じて神が祝福に訪れるという民間信仰があった。「祝言人」(ほかいびと)の芸能に由来するとも言われ、これは神を装い、民家の戸口等に立って祝福することば「祝い言」(ほかいごと)を発することで金銭を乞う者である。平安時代934年(承平4年)ころに成立したとされる『和名類聚抄』(934年ころ成立)には、「乞児」(ほかいびと)の文字で解説されており、物乞いであると10世紀の時点で定義されている
 
 
 
 
                             藤圭子19歳
 
あの頃、東京では、ほぼ貧困問題は解決していたように思う。高校に進学しない友人もいなかった。
門付など殆ど過去のものとなっていた時代に、そのような生き方しかできなかったとしたら、無意識のうちに、子どもだった彼女の心に、拭い去ることのできない傷を負わせてしまったのではないだろうか。
 
最後の6年間、ひっそりと暮らしていたのが、「新宿」であったこと、やはり、藤圭子ファンの私たちには、とても感慨深いです。
 
ありがとうございました。
 
 
 
 
 
宇多田ヒカル
嵐の女神

作詞:Utada Hikaru
作曲:
Utada Hikaru

嵐の女神 あなたには敵わない


心の隙間を埋めてくれるものを
探して 何度も遠回りしたよ

たくさんの愛を受けて育ったこと
どうしてぼくらは忘れてしまうの

嵐の後の風はあなたの香り

嵐の通り道歩いて帰ろう
忙しき世界の片隅

受け入れることが愛なら
 
「許し」ってなに? きっと...

与えられるものじゃなく、与えるもの

どうして私は待ってばかりいたんだろう

お母さんに会いたい

分かり合えるのも 生きていればこそ
今なら言えるよ ほんとのありがとう

こんなに青い空は見たことがない

私を迎えに行こう お帰りなさい
小さなベッドでおやすみ
 
                                 ◇
 
 
藤圭子 中学2年の時の詩
 
 昨日の町が遠くになって
 明日の町が近くになる
 私はいつも
 祈るの
 こんど行く町は
 絵本でみたような
 夢のある町でありますよう にって……
 
 
 

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